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京都地方裁判所 昭和51年(ワ)208号 判決 1987年12月11日

《目次》

当事者及び訴訟代理人

主文

事実

第一 当事者の求めた裁判

一 原告らの請求の趣旨

二 請求の趣旨に対する被告らの答弁

第二 当事者の主張<省略>

第三 証拠<省略>

理由

第一当事者と原告患児らの視力障害

一当事者

二原告患児らの視力障害

第二本症

一未熟児

二病像等

三本症の原因

四本症の原因究明の経過

五予防法

六治療法

第三被告らの責任

一総論

二各論

第四損害

一慰謝料

二弁護士費用

第五結論

A事件原告

齋田律子

右法定代理人親権者父兼A事件原告

齋田則彦

右法定代理人親権者母兼A事件原告

齋田昭子

A事件原告

宮武幸夫

右法定代理人親権者父兼A事件原告

宮武健

右法定代理人親権者母兼A事件原告

宮武美子

A、D事件原告

田村昌宏

右法定代理人親権者父兼A、D事件原告

田村孝司

右法定代理人親権者母兼A、D事件原告

田村咲子

A事件原告

横井成子

右法定代理人親権者母兼A事件原告

横井多榮子

A事件原告

増田朋宏

右法定代理人親権者父兼A事件原告

増田富夫

右法定代理人親権者母兼A事件原告

増田綾野

A事件原告

山口光昭

右法定代理人親権者父兼A事件原告

山口亮一

右法定代理人親権者母兼A事件原告

山口浅子

A、B事件原告

志水政子

右法定代理人親権者父兼A、B事件原告

志水弘之

右法定代理人親権者母兼A、B事件原告

志水捷代

A、B事件原告

平井弥生

右法定代理人親権者父兼A、B事件原告

平井光國

右法定代理人親権者母兼A、B事件原告

平井多津子

A、B事件原告

福山さつき

右法定代理人親権者父兼A、B事件原告

福山義隆

右法定代理人親権者母兼A、B事件原告

福山初子

A事件原告

山川秀樹

右法定代理人親権者父兼A事件原告

山川桂三

右法定代理人親権者母兼A事件原告

山川美幸

A事件原告

野口亜希子

右法定代理人親権者父兼A事件原告

野口榮吉

右法定代理人親権者母兼A事件原告

野口とき子

A事件原告

西村浩二

右法定代理人親権者父兼A事件原告

西村信夫

右法定代理人親権者母兼A事件原告

西村初子

C事件原告

後藤健一郎

右法定代理人親権者父兼C事件原告

後藤洋平

右法定代理人親権者母兼C事件原告

後藤裕子

右A、B、C、D事件原告ら訴訟代理人弁護士

夏目文夫

浅岡美恵

稲村五男

川中宏

福井啓介

若松芳也

戸倉晴美

中尾誠

北條雅英

村井豊明

杉山潔志

竹下義樹

右若松芳也A事件訴訟復代理人兼右B、C、D事件原告ら訴訟代理人弁護士

安保嘉博

右A、C、D事件原告ら訴訟代理人弁護士

田中実

右A、B事件原告ら訴訟代理人弁護士

中山福二

寺田武彦

右A事件原告ら訴訟代理人弁護士

上羽光男

木村靖

高見沢昭治

西山司朗

吉田克弘

A事件被告

学校法人大阪医科大学

右代表者理事

堀井五十雄

右訴訟代理人弁護士

俵正市

弥吉弥

重宗次郎

苅野年彦

草野功一

坂口行洋

寺内則雄

A事件被告

三菱自動車工業株式会社

右代表者代表取締役

館豊夫

右訴訟代理人弁護士

岩田廣一

森川清一

右森川清一訴訟復代理人弁護士

矢田誠

A、D事件被告

右代表者法務大臣

遠藤要

右被告A、D事件訴訟代理人弁護士

堀弘二

右被告A、D事件指定代理人

竹中邦夫

塚原勇

本田孔士

立花政雄

蔵本正年

大江保

堀内和幸

山井澄夫

石井博

藤田修

藤原善量

右被告A事件指定代理人

山元豊吉

小西行郎

鹿内清三

三河春樹

A、C事件被告

日本赤十字社

右代表者社長

山本正淑

右被告A、C事件訴訟代理人弁護士

饗庭忠男

小堺堅吾

田邊照雄

右被告A事件訴訟代理人弁護士

中坊公平

谷澤忠彦

正木丈雄

右田邊照雄C事件訴訟復代理人弁護士

知原信行

A事件被告

社会福祉法人恩賜財団済生会

右代表者理事

犬丸実

右訴訟代理人弁護士

饗庭忠男

小堺堅吾

B事件被告

京都府

右代表者知事

荒巻禎一

右訴訟代理人弁護士

中坊公平

谷澤忠彦

右指定代理人

京極隆夫

柳田浩

主文

一  被告日本赤十字社は、

1  原告後藤健一郎に対し金二二〇〇万円及び内金二〇〇〇万円に対する昭和五二年三月二二日から、内金二〇〇万円に対する本判決言渡の日の翌日から各支払い済みまで年五分の割合による金員

2  原告後藤洋平及び同後藤裕子に対し、それぞれ金二二〇万円及び各内金二〇〇万円に対する昭和五二年三月二二日から、各内金二〇万円に対する本判決言渡の日の翌日から各支払い済みまで年五分の割合による金員

を支払え。

二  原告後藤健一郎、同後藤洋平及び同後藤裕子の被告日本赤十字社に対するその余の各請求、原告齋田律子、同齋田則彦及び同齋田昭子の被告学校法人大阪医科大学に対する各請求、原告宮武幸夫、同宮武健及び同宮武美子の被告三菱自動車工業株式会社に対する各請求、同田村昌宏、同田村孝司及び同田村咲子の被告三菱自動車工業株式会社及び同国に対する各請求、原告横井成子、同横井多榮子、同増田朋宏、同増田富夫、同増田綾野、同山口光昭、同山口亮一及び同山口浅子の被告日本赤十字社に対する各請求、同志水政子、同志水弘之、同志水捷代、同平井弥生、同平井光國、同平井多津子、同福山さつき、同福山義隆及び同福山初子の被告日本赤十字社及び同京都府に対する各請求、被告山川秀樹、同山川桂三、同山川美幸、同野口亜希子、同野口榮吉及び同野口とき子の被告国に対する各請求、原告西村浩二、同西村信夫及び同西村初子の被告社会福祉法人恩賜財団済生会に対する各請求をいずれも棄却する。

三  訴訟費用中、原告後藤健一郎、同後藤洋平及び同後藤裕子と被告日本赤十字社との間に生じた分は、いずれもこれを三分し、その二を右原告らの負担、その余を右被告の負担とし、原告齋田律子、同齋田則彦及び同齋田昭子と被告学校法人大阪医科大学との間に生じた分、原告宮武幸夫、同宮武健及び同宮武美子と被告三菱自動車工業株式会社との間に生じた分、同田村昌宏、同田村孝司及び同田村咲子と被告三菱自動車工業株式会社及び同国との間に生じた分、原告横井成子、同横井多榮子、同増田朋宏、同増田富夫、同増田綾野、同山口光昭、同山口亮一及び同山口浅子と被告日本赤十字社との間に生じた分、同志水政子、同志水弘之、同志水捷代、同平井弥生、同平井光國、同平井多津子、同福山さつき、同福山義隆及び同福山初子と被告日本赤十字社及び同京都府との間に生じた分、被告山川秀樹、同山川桂三、同山川美幸、同野口亜希子、同野口榮吉及び同野口とき子と被告国との間に生じた分、原告西村浩二、同西村信夫及び同西村初子と被告社会福祉法人恩賜財団済生会との間に生じた分は、いずれも右原告らの負担とする。

四  この判決は、第一項に限り仮に執行することができる。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  原告らの請求の趣旨

1  被告学校法人大阪医科大学(以下「被告大阪医大」という。)は、

(一) 原告齋田律子に対し、金五五〇〇万円及び内金五〇〇〇万円に対する昭和四六年一〇月一二日から、内金五〇〇万円に対する本判決言渡の日の翌日から、いずれも支払い済みまで年五分の割合による金員を支払え。

(二) 原告齋田則彦、同齋田昭子各自に対し、各金五五〇万円及び内各金五〇〇万円に対する昭和四六年一〇月一二日から、内各金五〇万円に対する本判決言渡の日の翌日から、いずれも支払い済みまで年五分の割合による金員を支払え。

2  被告三菱自動車工業株式会社(以下「被告三菱自工」という。)は、

(一) 原告宮武幸夫に対し、金五五〇〇万円及び内金五〇〇〇万円に対する昭和四八年一二月一〇日から、内金五〇〇万円に対する本判決言渡の日の翌日から、いずれも支払い済みまで年五分の割合による金員を支払え。

(二) 原告宮武健、同宮武美子各自に対し、各金五五〇万円及び内各金五〇〇万円に対する昭和四八年一二月一〇日から、内各金五〇万円に対する本判決言渡の日の翌日から、いずれも支払い済みまで年五分の割合による金員を支払え。

3  被告三菱自工及び被告国は、各自、

(一) 原告田村昌宏に対し、金五五〇〇万円及び内金五〇〇〇万円に対する昭和四九年七月一〇日から(被告国に関しては同年八月一日から)、内金五〇〇万円に対する本判決言渡の日の翌日から、いずれも支払い済みまで年五分の割合による金員を支払え。

(二) 原告田村孝司、同田村咲子各自に対し、各金五五〇万円及び内各金五〇〇万円に対する昭和四九年七月一〇日から(被告国に関しては同年八月一日から)、内各金五〇万円に対する本判決言渡の日の翌日から、いずれも支払い済みまで年五分の割合による金員を支払え。

4  被告日本赤十字社(以下「被告日赤」という。)は、

(一)(1) 原告横井成子に対し、金五五〇〇万円及び内金五〇〇〇万円に対する昭和四四年九月一九日から、内金五〇〇万円に対する本判決言渡の日の翌日から、いずれも支払い済みまで年五分の割合による金員を支払え。

(2) 原告横井多榮子に対し、金五五〇万円及び内金五〇〇万円に対する昭和四四年九月一九日から、内金五〇万円に対する本判決言渡の日の翌日から、いずれも支払い済みまで年五分の割合による金員を支払え。

(二)(1) 原告増田朋宏に対し、金三三〇〇万円及び内金三〇〇〇万円に対する昭和四三年一一月五日から、内金三〇〇万円に対する本判決言渡の日の翌日から、いずれも支払い済みまで年五分の割合による金員を支払え。

(2) 原告増田富夫、同増田綾野各自に対し、各金三三〇万円及び内各金三〇〇万円に対する昭和四三年一一月五日から、内各金三〇万円に対する本判決言渡の日の翌日から、いずれも支払い済みまで年五分の割合による金員を支払え。

(三)(1) 原告山口光昭に対し、金五五〇〇万円及び内金五〇〇〇万円に対する昭和四四年七月六日から、内金五〇〇万円に対する本判決言渡の日の翌日から、いずれも支払い済みまで年五分の割合による金員を支払え。

(2) 原告山口亮一、同山口浅子各自に対し、各金五五〇万円及び内各金五〇〇万円に対する昭和四四年七月六日から、内各金五〇万円に対する本判決言渡の日の翌日から、いずれも支払い済みまで年五分の割合による金員を支払え。

(四)(1) 原告後藤健一郎に対し、金五五〇〇万円及び内金五〇〇〇万円に対する昭和五二年三月二二日から、内金五〇〇万円に対する本判決言渡の日の翌日から、いずれも支払い済みまで年五分の割合による金員を支払え。

(2) 原告後藤洋平、同後藤裕子各自に対し、各金五五〇万円及び内各金五〇〇万円に対する昭和五二年三月二二日から、内各金五〇万円に対する本判決言渡の日の翌日から、いずれも支払い済みまで年五分の割合による金員を支払え。

5  被告日赤及び被告京都府は、各自、

(一)(1) 原告志水政子に対し、金五五〇〇万円及び内金五〇〇〇万円に対する昭和四四年一〇月一〇日から(被告京都府に関しては同年一二月一一日から)、内金五〇〇万円に対する本判決言渡の日の翌日から、いずれも支払い済みまで年五分の割合による金員を支払え。

(2) 原告志水弘之、同志水捷代各自に対し、各金五五〇万円及び内各金五〇〇万円に対する昭和四四年一〇月一〇日から(被告京都府に関しては同年一二月一一日から)、内各金五〇万円に対する本判決言渡の日の翌日から、いずれも支払い済みまで年五分の割合による金員を支払え。

(二)(1) 原告平井弥生に対し、金五五〇〇万円及び内金五〇〇〇万円に対する昭和四六年五月七日から(被告京都府に関しては同年七月一四日から)、内金五〇〇万円に対する本判決言渡の日の翌日から、いずれも支払い済みまで年五分の割合による金員を支払え。

(2) 原告平井光國、同平井多津子各自に対し、各金五五〇万円及び内各金五〇〇万円に対する昭和四六年五月七日から(被告京都府に関しては同年七月一四日から)、内各金五〇万円に対する本判決言渡の日の翌日から、いずれも支払い済みまで年五分の割合による金員を支払え。

(三)(1) 原告福山さつきに対し、金五五〇〇万円及び内金五〇〇〇万円に対する昭和四八年三月二三日から(被告京都府に関しては同年四月二〇日から)、内金五〇〇万円に対する本判決言渡の日の翌日から、いずれも支払い済みまで年五分の割合による金員を支払え。

(2) 原告福山義隆、同福山初子各自に対し、各金五五〇万円及び内各金五〇〇万円に対する昭和四八年三月二三日から(被告京都府に関しては同年四月二〇日から)、内各金五〇万円に対する本判決言渡の日の翌日から、いずれも支払い済みまで年五分の割合による金員を支払え。

6  被告国は、

(一)(1) 原告山川秀樹に対し、金五五〇〇万円及び内金五〇〇〇万円に対する昭和四四年一月二五日から、内金五〇〇万円に対する本判決言渡の日の翌日から、いずれも支払い済みまで年五分の割合による金員を支払え。

(2) 原告山川桂三、同山川美幸各自に対し、各金五五〇万円及び内各金五〇〇万円に対する昭和四四年一月二五日から、内各金五〇万円に対する本判決言渡の日の翌日から、いずれも支払い済みまで年五分の割合による金員を支払え。

(二)(1) 原告野口亜希子に対し、金五五〇〇万円及び内金五〇〇〇万円に対する昭和四九年四月二日から、内金五〇〇万円に対する本判決言渡の日の翌日から、いずれも支払い済みまで年五分の割合による金員を支払え。

(2) 原告野口榮吉、同野口とき子各自に対し、各金五五〇万円及び内各金五〇〇万円に対する昭和四九年四月二日から、内各金五〇万円に対する本判決言渡の日の翌日から、いずれも支払い済みまで年五分の割合による金員を支払え。

7  被告社会福祉法人恩賜財団済生会(以下「被告済生会」という。)は、

(一) 原告西村浩二に対し、金五五〇〇万円及び内金五〇〇〇万円に対する昭和四五年五月一二日から、内金五〇〇万円に対する本判決言渡の日の翌日から、いずれも支払い済みまで年五分の割合による金員を支払え。

(二) 原告西村信夫、同西村初子各自に対し、各金五五〇万円及び内各金五〇〇万円に対する昭和四五年五月一二日から、内各金五〇万円に対する本判決言渡の日の翌日から、いずれも支払い済みまで年五分の割合による金員を支払え。

8  訴訟費用は被告らの負担とする。

9  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する被告らの答弁

1  原告らの各請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告らの負担とする。

3  予備的仮執行免脱宣言(但し、被告国のみ)

第二  当事者の主張<省略>

第三  証拠<省略>

理由

第一当事者と原告患児らの視力障害

一当事者

請求原因1の当事者に関する事実は、当事者間に争いがない。

二原告患児らの視力障害

1  原告律子

原告律子が、昭和四六年七月二〇日、大阪府高槻市の中村産婦人科医院で出生したところ、在胎週数三〇週、生下時体重一三五〇グラムの未熟児であつたため、同月二三日、大阪医大病院に転院し、同病院産婦人科の外賀医師の指示で直ちに保育器に収容され、同医師の管理のもと同年八月二五日(生後三七日目)までの三四日間にわたり二四パーセントないし三六パーセントの酸素投与を受け、同年九月一六日同病院を退院したこと、同原告が、右退院後の同年一〇月一一日(生後八四日目)に、同病院眼科で初めて眼底検査を受けたところ、本症に罹患し、既に手遅れの状態であることが判明し、間もなく両眼とも失明したことは、関係当事者間で争いがなく、同争いのない事実に、<証拠>並びに弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められ、同認定を覆すに足る証拠はない。

(一) 出生経過

(1) 母親(原告昭子)の出産歴

昭和四四年に二四〇〇グラムの男児出産(在胎九か月、妊娠中毒症を合併)

(2) 妊娠期間中の状況

高血圧、流産の恐れ等のため投薬。

(3) 出産の状況

(a) 出産予定日 昭和四六年(以下同じ。)一〇月一日

(b) 出産日 七月二〇日(予定日より七三日早く出産)

(c) 在胎期間 八か月二週

(d) 分娩経過

七月二〇日午後四時 前期破水

同日午後六時一〇分 子宮口二指横径開大、直ちに中村医院に入院

同日午後七時一九分 原告律子分娩(一卵性双胎第一子)

同日午後七時四八分 同第二子京子(訴外)分娩

(二) 生下時の状態

(1) 体重  一三五〇グラム

(2) 全身状況

第二後頭位にて出生し、アプガースコア一〇点、胎便排出を認めたが、啼泣弱く、直ちに保育器に収容し、酸素投与。

(三) 診療経過

(1) 同月二三日(生後四日目)大阪医大病院産婦人科へ転送、入院し、直ちに保育器(アトム・インファント・インクベーターV五五型、器内温度三二度、湿度七〇パーセント)に収容し、酸素投与開始。

(2) 入院中の担当医師  外賀治、土居荘之介(副主治医、但し、一時的に渡辺某が交替)

(3) 入院時の全身状態

体重一二三〇グラム、体温32.9度、脈拍数毎分九二回、呼吸数毎分三二回、全身バラ色で良好、四肢運動活発、眼脂を認め、下肢に軽度浮腫あり。

(4) 主な臨床経過

(a) 呼吸状態

呼吸数は、毎分二〇から三六までの間で、生後四日目に無呼吸発作(一〇秒ないし一五秒間)があり、七月二九日(生後一〇日目)に胸部陥没気味呼吸及び末梢性チアノーゼなどの症状が認められた。八月七日(生後一九日目)以降呼吸数が安定した。

(b) 体温

八月一一日(生後二三日目)までは三五度を超えない低体温が続き、八月一七日(生後二九日目)以降三六度以上となる。

(c) 体重

出生時一三五〇グラムあつた体重は減少を続け、七月三〇日(生後一一日目)には一〇二〇グラムまで減少したが、その後増加に転じ、八月一六日(生後二八日目)にほぼ生下時体重にまで回復し、その後も順調に増加し、退院時の九月一六日(生後五九日目)は二六五〇グラムであつた。

(d) 栄養

出生後六九時間目より開始し、最初は白湯一CC、翌日から栄養チューブを留置してミルクを一回一CC、一日八回注入。その後次第に増量。生後四二日目から経口投与。

(e) 酸素投与

イ 投与期間 七月二〇日出生直後から八月二六日(生後三八日目)まで

ロ 投与量及び濃度(濃度はミラー社製酸素濃度計を使用)

大阪医大病院における投与開始後七月二六日(生後七日目)まで毎分三リットルの酸素投与(この間の濃度三〇パーセントないし三六パーセント)、七月二七日(生後八日目)から八月四日(生後一六日目)まで毎分二リットルの酸素投与(この間の濃度二八パーセントないし三六パーセント)、以後呼吸や脈拍が安定してきたため、八月五日(生後一七日目)からは毎分0.5リットルの酸素を投与し、八月二六日(生後三八日目)に投与を停止(この間の濃度二四パーセントないし二七パーセント)しているのであるが、同月六、七日は毎分一リットルを投与。

(f) その他

入院時より眼脂を認め、クロロマイセチン点眼薬を点眼したが、軽快、悪化を繰り返し、八月二五日には眼脂が強くなつたため、エユリシン点眼薬とクロロマイセチン点眼薬を併用して点眼回数を増加。八月二七日には少し軽快、その後はエユリシン点眼薬のみ点眼。

(5) 九月五日(生後四八日目)保育器から出す。

(6) 九月一六日(生後五九日目)退院。

(四) 退院後の経過

一般状態良く、同原告は順調に成育したが、一〇月一一日(生後八四日目)、大阪医大病院眼科を受診し、奥沢医師の診察を受けたところ、両眼とも本症に罹患し、既に手遅れの状態である旨の診断を受けた。それでも、同原告は、奥沢医師の紹介により翌一〇月一二日天理病院で永田医師の診察を受けたところ、両眼の網膜とも、四九年度研究班報告の分類活動期Ⅳ期に該当し、そのうち右眼は瘢痕期に移行しつつあり、左眼は網膜全剥離の状態で、凝固治療の効果を期待できないと診断された。

2  原告幸夫

原告幸夫が、昭和四六年八月四日、三菱京都病院において、在胎週数二九週、生下時体重一四五〇グラムの未熟児として出生したこと、出生後、同病院の小柴医師の指示で直ちに保育器に収容され、以後同医師の管理のもと同年九月一〇日(生後三八日目)までのうち、出生日から約二〇日間は濃度三〇ないし三八パーセント、その後生後三八日目までは濃度二二パーセント程度の酸素投与を受け、同年一〇月二日同病院を退院したことは関係当事者間に争いがなく、右争いのない事実に、<証拠>並びに弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められ、同認定に反する証拠はない。

(一) 出生経過

(1) 母親(原告美子)の妊娠、出産歴

昭和三四年 自然流産(在胎三か月)

昭和三五年 自然流産(在胎四か月)

昭和四四年 正常分娩

(2) 妊娠期間中の状況

昭和四六年(以下同じ。)七月一一日から少量ながら性器出血があり、同日三菱京都病院産婦人科に入院、以後同月二四日ころまで断続的に性器出血が続く。

(3) 出産の状況

(a) 出産予定日 一〇月二二日

(b) 出産日 八月四日(予定日より七九日早く出産)

(c) 在胎期間 二九週

(d) 分娩経過

八月四日午前六時 前期破水、骨盤位であつたためメトロイリンテルを挿入

同日午前一一時 陣痛発来

同日午後二時〇七分 骨盤位にて分娩

(二) 生下時の状況

(1) 体重 一四五〇グラム

(2) 全身状況

全身チアノーゼ、啼泣せず、筋緊張不良、第二度仮死状態(アプガースコア四点)、無呼吸発作症状を認める、四肢運動を認めず。

(三) 診療の経過

(1) 入院中の担当医師 小柴壽彌

(2) 小柴医師の指示で、出生後直ちに保育器(中村医科工業株式会社製H・六一型、器内温度約三〇度ないし三一度、同湿度七〇パーセントないし八〇パーセント)に収容。なお、収容に当つては、強心剤、呼吸興奮剤の注射を行うとともに、蘇生器を使用して人工呼吸蘇生術を施し、自発呼吸の開始を待つて収容した。

(3) 主な臨床経過

(a) 呼吸状態等

出生四時間後には、なお顔面四肢のチアノーゼ及び呼吸不整があり、呼吸数は毎分五六と頻数だが、出生直後に比し全身色、筋緊張面では好転がみられ、啼泣するようになる。八月五日(生後二日目)午前二時三〇分時点で六六と頻数だが、皮膚色概ね良好となり、両上肢、左下肢に屈伸運動を認める。八月八日(生後五日目)アトムカテーテルよりプレミルクの注入を開始したが、嘔吐なく、一般状態にも著変なし。

(b) 体温

出生時以後二〇日間は三二度ないし35.9度(平均三三度ないし三四度)の低体温を維持し変動幅も大。その後上下しながらも徐々に上昇。

(c) 体重

生下時一四五〇グラムあつた体重は減少を続け、八月一一日(生後八日目)には一二七五グラムまで減少したが、同月一三日(生後一〇日目)から増加傾向に転じ、同月二六日(生後二三日目)に一四四五グラムとほぼ生下時体重まで回復。その後順調に増加し、二五〇〇グラムで退院。

(d) 栄養

出生後四日目から開始し、最初は鼻腔栄養によりぶどう糖液二CCずつ四回与え、翌日からミルクを一回二CC、一日四回、その後次第に増量し、八月二九日(生後二六日目)から同月三一日にかけて経口投与を試みたものの、時期尚早のため鼻腔栄養に戻し、同年九月二一日から本格的に経口が可能となつた。

(e) 酸素管理

イ 投与期間 八月四日出生直後から九月一〇日(生後三八日目)まで。

ロ 投与量及び濃度(濃度はベックマンD2型酸素濃度計により計測)

開始時毎分四リットル(濃度三六ないし三八パーセント)、出生四時間後に毎分三リットルまで減少させ、八月八日(生後五日目)までこれを維持(この間の濃度三二ないし三七パーセント)、同月九日(生後六日目)から同月一一日(生後八日目)まで毎分二リットル(この間の濃度三〇ないし三二パーセント)、同月一二日(生後九日目)から同月二五日(生後二二日目)まで毎分二リットル(この間の濃度二八ないし三〇パーセント)、同月二六日(生後二三日目)及び翌二七日(生後二四日目)は毎分1.5リットル、以後同年九月三日(生後三一日目)まで毎分一リットル、同月四日(生後三二日目)から投与終了時まで毎分0.5リットル(同月二六日から投与終了時までの濃度は、三〇パーセントから徐々に減少し同年九月三日以降二二パーセント)。

なお、右当時における、小柴医師の未熟児保育における酸素投与についての認識は、在胎週数が短い未熟児にとり必要不可欠なものであるが、本症(当時の認識としてはRLF)の発症防止のため必要といわれているところに従い濃度を四〇パーセント以下にし、投与を停止するについては徐々に濃度を下げる漸減方式をとり、投与期間については、児の状態によりケース・バイ・ケースであるが、全身状態が許す限り短くするというもので、これにより本症の発症は防止できるとしていた。同医師は、同認識に従い、原告幸夫の生命が危険な状態にあり、未熟兆候が顕著であつたうえ、出生前母体の性器出血が断続していたことや、骨盤位分娩であつたこと、さらにはチアノーゼは発現していないものの、呼吸状態が芳しくないことや体重の回復が遅いことなどから、無呼吸発作、低酸素症等による生命の危険や後遺障害発生の回避のため、当初四リットルの酸素投与が必要と判断して投与を開始した後、全身状態をみながら、右のとおり徐々に投与量を減じて濃度を下げ、体重が二〇〇〇グラムを超えた時点で投与を停止した。

(4) 一〇月二日(生後六〇日目)退院

(四) 退院後の経過

同年一二月九日三菱京都病院で実施された乳児検診の際、明暗もはつきりしないため同院眼科で岡本医師の診察を受けたところ、「両眼とも前房浅く、虹彩後癒着あり、ミドリンP散瞳薬でも散瞳不十分、両眼水晶体後部に白色膜、更にその表面に血管及び部分的出血を認め、眼底の透視不能」との症状が認められ、同医師は「未熟児網膜症の疑いで、視力回復の見込みなし。」と診断した。その後、両眼とも失明するに至つた。

3  原告昌宏

原告昌宏が、昭和四九年五月一六日、三菱京都病院において、在胎週数三一週、生下時体重一六〇〇グラムの未熟児として出生したことは、関係当事者間で争いがなく、同原告が出生後小柴医師の指示で直ちに保育器に収容され、以後同医師の管理のもと同年六月三日(生後一九日目)までのうち出生日から同年五月二一日までの六日間は毎分四リットル、同月二二日から同月二八日までの七日間は毎分三リットル、同月二九日は毎分二リットル、同月三〇日から六月三日までの四日間は毎分一リットルの酸素投与を受けたこと、同原告が、同病院に入院中の同年七月九日(生後五五日目)に岡本医師による眼底検査を受けたところ、本症に罹患していることが判明したこと、同医師が右検査直後直ちに京大病院眼科の宇山医師に対して同原告の診療を依頼するとともに、同原告に対して京大病院で診察を受けるよう指示したこと、以上の事実は、同原告及び同原告両親と被告三菱自工との間では争いがなく、被告国との間では弁論の全趣旨によりこれを認める。そして、原告昌宏が、前同月一一日京大病院眼科を受診した後三菱京都病院に帰院したこと、翌一二日京大病院眼科で光凝固施行中に容態が悪化し、手術が中止となり三菱京都病院に帰院したこと、同月一五日、同病院において同原告を国立京都病院に転院させたことは、関係当事者間で争いがなく、同原告が同病院において同原告ら主張のとおり、澤本医師が同月一七日眼底検査、同月一九日及び二六日の二回に光凝固を行つたこと、しかし、同原告が失明したことは、同原告及び同原告両親と被告国との間では争いがなく、被告三菱自工との間では弁論の全趣旨によりこれを認める。そこで、以上の事実に、<証拠>並びに弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められ、同認定を覆すに足る証拠はない。

(一) 出生経過

(1) 母親(原告咲子)の出産歴

昭和四六年五月 帝王切開分娩

(2) 妊娠期間中の状況

昭和四九年五月九日前期破水により自宅近くの医者にかかつていたが、同月一三日に至り、三菱京都病院に来院し直ちに入院。

(3) 出産の状況

(a) 出産予定日 昭和四九年(以下同じ。)七月二四日

(b) 出産日 五月一六日(予定日より六九日早く出産)

(c) 出産場所 三菱京都病院

(d) 在胎期間 三一週

(e) 分娩経過

五月一六日午前七時 陣痛発来

同日午前八時三〇分 頭位にて分娩

(二) 生下時の状況

(1) 体重 一六〇〇グラム

(2) 全身状況

呼吸平穏、胸部陥没なし、全身に軽度のチアノーゼ、アプガースコア九点

(三) 産婦人科診療の経過

(1) 出生後直ちに保育器(中村医科工業株式会社製H・六〇〇型又はH六一型、器内温度及び湿度原告幸夫と同じ)に収容して酸素投与開始。

(2) 入院中の担当医師 小柴壽彌、木下康

(3) 主な臨床経過

(a) 出生後の児の全身状態は概ね良好状態を保つていた。

(b) 体重

生下時一六〇〇グラムあつた体重は、五月二七日(生後一二日目)には一三六〇グラムまで減少したが、その後増加に転じて、六月八日(生後二四日目)にはほぼ生下時の体重にまで回復し、退院前の七月一二日(生後五八日目)は二六三〇グラムであつた。

(c) 体温

生後一三日間は、ほぼ三五度以下の低体温状態が持続したが、以後三五度ないし三七度の間を、上下しながらも徐々に上昇した。

(d) 栄養

出生後三日目から開始し、最初は鼻腔栄養によりぶどう糖液四CCずつ四回与え、翌日からミルクを一回四CC、一日八回、その後六月三日まで増量して鼻腔栄養を施し、以後経口により栄養を与えた。

(e) 酸素管理

イ 投与期間 出生直後から六月三日(生後一九日目)まで

ロ 投与量及び濃度(濃度はベツクマン酸素濃度計〔D2型〕及び中村医科工業製Nアイデアル電気式酸素濃度計により計測)

開始後五月二〇日(生後五日目)までは毎分四リットル(この間の酸素濃度は三二ないし三八パーセント)、翌二一日(生後六日目)から同月二七日(生後一二日目)までは毎分三リットル(この間の酸素濃度は三二パーセントないし三七パーセントで平均32.3パーセント)、同月二八日(生後一三日目)と翌二九日の二日間は毎分二リットル(この間、二九日の酸素濃度は二八パーセント)、同月三〇日(生後一五日目)からの五日間は毎分一リットル(この間、三〇日の濃度は二三パーセントないし三二パーセント)、六月三日(生後一九日目)酸素投与停止。

なお、小柴医師の、右当時の未熟児保育における酸素投与に対する認識は、基本的には昭和四六年に原告幸夫を診療した当時と同様(前記2(三)(3)(e))であつたが、本症の発症防止のため、酸素の投与方法を厳格にし投与期間を出来るだけ短縮する必要があるとの点において認識の変化があつた。しかし、同医師は、原告昌宏につき、前期破水から分娩まで約一週間を経過しているところから、その間、酸素不足の状態に置かれていたと判断し、出血傾向にあると前提して、全身状態の改善をみながら右のとおり酸素投与を行つた。

(4) 七月八日(生後五四日目)保育器から出し、コットヘ移床。

(四) 眼科診療の経過

(1) 三菱京都病院

岡本医師は、七月九日、前記眼底検査により、両眼網膜の耳側から上方半周にかけ境界線を認め、両眼網膜の周辺部に無血管帯を広く認めたうえ、硝子体混濁を右境界線の周辺に少し認めた。同医師は、「未熟児網膜症の疑い」と診断し、診断時オーエンスの分類Ⅱ期からⅢ期にかけての症状と判断した。

(2) 京大病院

(a) 宇山医師が岡本医師の診療依頼により七月一一日、外来患者として原告昌宏を診察したところ、左右両眼とも視神経乳頭が円形で、やや不鮮明に境界され、混濁し、網膜血管が動静脈とも後極部から強く拡張蛇行し、網膜は全体が強く灰白色に混濁し、周辺部ではやや剥離状況も認められ、赤道部よりも更に後極部寄りに網膜全周にわたり、著しい滲出による灰白色の幅広い隆起がみられ、隆起上では血管の新生、拡張、吻合が特に強く、その隆起部より周辺には幅広い無血管帯が広がつていた。右症状から宇山医師は、本症Ⅲ期末期からⅣ期で、通常のⅠ型よりむしろ迅速型のⅡ型ないし混合型に属する極めて重篤な網膜症と診断した。

(b) そこで、同医師は、本症例が重篤で予後不良と判断したけれども、光凝固以外に治療法がないため、翌一二日に外来患者として光凝固を行つていたところ、原告昌宏が四一度の発熱で、全身状態不良となつたため、立合いの産科医の要請により途中で中止した。同原告の眼底は、硝子体及び網膜の混濁のため観察が困難であつたし、一部に網膜剥離もあつたうえ、同原告が泣いて動くため、光凝固は困難を極めたが、辛うじて左眼の耳側の隆起上及び無血管帯に広く凝固斑を置き、右眼については外方の隆起の後極部寄りを凝固したに止まつた。宇山医師は、外来通院のまま引き続き光凝固を行うことが困難なため、京大病院未熟児センターヘの入院依頼を指示したけれども、満床であつた。それが同日三菱京都病院へ帰ることになつた経緯である。

(3) 国立京都病院

かくして、七月一三日、小柴医師の依頼により原告昌宏は、同月一五日、国立京都病院へ小児科患者として入院した。そして、全身状態から診察可能と判断された同月一七日、同病院眼科医長澤本医師が診察したところ、両眼の症状は次のとおりで、既に活動期Ⅳ期に入つていて光凝固の効果を期待できないけれども、とにかく同月一七日に光凝固を行うことになつた。

(a) 右眼

中等度の硝子体混濁のため、眼底はぼんやり透見し得る状態、乳頭は牽引の始まりを思わせる程度に上下方向に少し延長、網膜静脈は著明に拡張蛇行、網膜の耳側周辺部は扁平に剥離し、その半周にわたつて境界線より進展したと見られる網膜より硝子体へ向つての著しい半月状の突出が認められ、また、その部分には著しい血管新生と出血斑が認められ、半月状突出部の内側にそれと平行して京大病院での光凝固による凝固斑が明瞭に認められる。

網膜の鼻側周辺部には、著しい浮腫による混濁(または扁平な網膜剥離)が認められ、また、血管新生も認められる。

(b) 左眼

軽度の硝子体混濁のため眼底は軽度にぼんやり透見し得る状態、眼底は右眼に比し変化の程度は全体としてやや軽度であつたが、乳頭・血管・網膜などの状態は右眼とほぼ同様、京大病院での光凝固による凝固斑は半月状突出部の外側に平行して並んで明瞭に認められる。

そこで、澤本医師は、七月一九日、約二時間かけて両眼に光凝固を行い、右眼については鼻側周辺部網膜を、左眼については耳側周辺部網膜を、それぞれ可及的に半周にわたつて凝固した。両眼とも硝子体混濁、網膜剥離、強度の網膜浮腫などのため、術直後の凝固斑の数及び強さは意図したものを完全には充足出来なかつたものの、同医師としては出来うる限りの凝固を行つた。以後七月二〇日、二三日、二六日と眼底検査により経過観察を行つたが、両眼とも硝子体混濁は更に著明となり、網膜剥離の拡大が認められるに至つたので、同医師において、更に七月二六日にも光凝固を行つたが、右眼は硝子体混濁と網膜剥離が強く凝固不能の状態で、左眼について鼻側周辺部の網膜を可及的半周にわたつて凝固した。その後、週二回の割合での眼底検査により経過観察を行うとともに、七月二九日より小児科主治医に依頼してステロイドの内服薬を投与したところ、右眼は硝子体混濁が更に進行、眼底がぼんやりとしか見えなくなつて、網膜全剥離となり、左眼についても、周辺部網膜が全周にわたつて扁平に剥離し、処々黄色の滲出斑が出現したものの、乳頭を含む後極部網膜には剥離が及ばなかつたものと判断された。それに、乳頭は、両眼とも牽引乳頭の状態となつた。そして、同年九月中旬頃より固定状態となり、同月二七日には斑痕化し始めたと判断された。そこで、同原告は、同年一〇月一日退院し、爾後経過観察を受けていたところ、同年一二月一一日暗室内で光の方向を見る、翌五〇年一月二九日右眼が中等度内斜して軽度の眼球萎縮、同年三月五日両眼球振盪出現、同年四月二四日左眼に変化なく、右眼に増殖性網膜、同年七月七日右眼に眼球癆、左眼の水晶体赤道部後面に後水晶体線維増殖症、硝子体にベール様混濁、しかし網膜の色は良好で剥離認めず、同年一二月一〇日小さな玩具を掴む程度の視力確認という経過を辿つた。

4  原告成子

原告成子が、昭和四四年六月九日、第一日赤病院において、在胎週数二九週、生下時体重一一〇〇グラムの未熟児として出生したこと、出生後、同病院未熟児センターに移され、同センター遠藤医師の指示で直ちに保育器に収容され、以後同医師の管理のもと同年七月二三日(生後四五日目)までのうち、出生日から同月二日までの二四日間は毎分三リットル、同月三日から同月一四日までの一二日間は毎分一リットル、同月一五日から同月二三日までの九日間は毎分0.5リットル、これを酸素濃度でいうと出生日から同月二日までの二四日間は三〇ないし四一パーセント、同月三日から同月二三日までの二一日間は二一ないし三二パーセントの酸素投与を受け、同年八月二六日、保育器からコットに出されたこと、同原告が同病院入院中の同年九月一八日(生後一〇八日目)に、今井医師による眼底検査を受けたところ、本症に罹患しており、既に右眼は網膜剥離を示し、左眼は混濁多く、ぼんやりした赤色色調であり、硝子体内出血がうかがわれたこと、その後、同センターの医師ら及び今井医師は、同原告に対し、一日当りACTH(副腎皮質刺激ホルモン)五ミリグラムを一〇日間投与したにすぎず、同年一〇月九日に再度眼底検査を行つた時には、両眼とも網膜剥離を呈し失明していたことは関係当事者間に争いがなく、右争いのない事実に、<証拠>及び弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められ、右認定を覆すに足る証拠はない。

(一) 出生経過

(1) 母親(原告多恵子)の妊娠、出産歴

昭和三四年七月 男児分娩(三二〇〇グラム)

昭和三六年二月 男児分娩(二六五〇グラム)

昭和三八年 人工中絶

昭和四二年 自然流産(妊娠三か月)

昭和四三年 自然流産(妊娠三か月)

(2) 妊娠期間中の状況

昭和四四年(以下同じ。)五月二日朝から不正性器出血を認め第一日赤病院に来院、切迫流産の診断を受ける。同月三一日、凝血の混じつた出血を認め再度来院、一応自宅で安静にするようにとのことで、注射と投薬を受けて帰宅。六月七日午後七時頃陣痛開始し、切迫早産として同日午後一〇時同病院産婦人科に入院。

(3) 出産の状況

(a) 出産予定日 八月二七日

(b) 出産日 六月九日(予定日より七九日早く出産)

(c) 在胎期間 二八週五日

(d) 分娩経過

六月八日午後九時より陣痛が強くなり出血も次第に増加。

六月九日午前一時三〇分 胎児心音聴取不能となる。

同日午前四時五五分 人工破水

同日午前四時五七分 第一頭位にて原告成子分娩

(二) 生下時の状況

(1) 体重 一一〇〇グラム

(2) 全身状況

全身チアノーゼ、皮膚暗赤色、体動不活発、筋緊張弱、胸骨陥没強、呼吸・脈拍不整、呻吟を認める。

(三) 診療の経過

(1) 出生後直ちに保育器(器内温度三三度、湿度七〇ないし八〇パーセント)に収容し、毎分三リットルの酸素投与、タラプチク、ビカタンファーや止血剤を注射。

(2) その後、呻吟、陥没様の呼吸が認められ、六月九日午前九時三〇分同病院小児科未熟児センターに入院。

(3) 入院中の担当医師 遠藤賢一

(4) 入院時の状態

体重一〇八〇グラム、体温三二度三分、心音清で脈拍毎分一一四、呼吸数毎分九六、栄養は普通であつたが、全身にチアノーゼと冷感があり、浮腫気味。呼吸は不整で呻吟強く陥没呼吸著明、呼吸音が弱い。神経反射はモロー反射、バビンスキー反射、両足把握反射いずれも弱く、ペレー反射は欠如。

(5) 以後の主な臨床経過

(a) 呼吸状態等

入院後暫く呼吸は不規則で、しばしば呼吸促迫を認めた。呻吟は約二日間でほぼ消失したが、胸部陥没を認める呼吸は六月一五日(生後七日目)まで続き、その後同月一九日(生後一一日目)、同月二一日(生後一三日目)、同月二三日(生後一五日目)、同月二五日(生後一七日目)、同月二六日(生後一八日目)にも見られた。また、手足のチアノーゼは七月一七日(生後三九日目)になつて消失した。呼吸数は、当初毎分九六であつたが、第二週を過ぎるあたりからほぼ六〇以下を維持するようになつた。

(b) 体重

生下時一一〇〇グラムあつた体重は減少を続け、六月一七日(生後九日目)には九三〇グラムまで減少したが、その後増加に転じ、七月一五日(生後三七日目)にほぼ生下時体重まで回復。その後順調に増加し、一一月八日(生後一五三日目)三〇〇〇グラムで退院。

(c) 体温

入院時32.3度、保育器収容後湯タンポを使用するも、八月一九日(生後一一日目)まで三四度ないし三五度の間の低体温が続いた。翌二〇日(生後一二日目)からほぼ三五度ないし三六度の間の体温となり、八月一七日(生後七〇日目)頃から若干の上下はあるもののほぼ三六度を維持するようになつた。

(d) 栄養

生後五四時間目から五パーセントぶどう糖液一CC投与、生後六〇時間目から一七パーセントプレミルク一ミリリットルを与えその後次第に増量、八月二六日(生後七九日目)から経口投与。

(e) 酸素管理

イ 投与期間 六月九日出生直後から七月二三日(生後四五日目)まで

ロ 投与量及び濃度(濃度はベックマン酸素濃度計により計測)

開始時毎分三リットルで七月一日(生後二三日目)までこれを維持(この間の濃度平均32.8パーセントで七月一日に四一パーセントを記録した以外、三〇ないし三八パーセント)、陥没呼吸が六月二六日以降みられなくなり、体重も増加傾向を示していたので、七月二日(生後二四日目)から毎分一リットルに投与量を減らし同月一三日(生後三五日目)までこれを維持(この間の濃度二三ないし三三パーセントで平均23.4パーセント)、同月一四日(生後三六日目)から投与量を毎分0.5リットルにし、同月二三日(生後四五日目)投与停止(この間の濃度二一ないし二六パーセントで平均22.2パーセント)。

(四) 眼症状について

九月一八日(生後一〇二日目)に同病院眼科の今井医師により眼底検査が施行されたところ、右眼につき眼底所見として、網膜剥離、血管新生、出血が、左眼につき硝子体混濁、眼底の異常が認められ、同医師は、両眼とも水晶体後部線維増殖症に罹患している旨診断した。以後、ACTHを一〇日間にわたつて一日当り五グラム投与し、一〇月九日再度眼底検査が施行されたが、同時点で両眼とも網膜剥離を呈しており、本症オーエンスⅣ期の状態で失明していた。

5  原告朋宏

原告朋宏が、昭和四二年八月一八日、第二日赤病院において、在胎週数三〇週、生下時体重一四四〇グラムの未熟児として出生し、出生後田中医師の指示で直ちに保育器に収容され、以後同医師及び野本医師の管理のもと酸素投与を受け、同年一〇月一八日、同病院を退院したこと、同原告が、翌四三年一一月一四日(生後一五か月)に、同病院眼科の小泉医師による眼底検査を受けたこと、その後間もなく両眼とも強度の弱視となつたことは、関係当事者間に争いがなく、右争いのない事実に、<証拠>並びに弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められ、右認定に反する証人田中健治の供述部分は措信できず、他に右認定を覆すに足る証拠はない。

(一) 出生経過

(1) 母親(原告綾野)の妊娠、出産歴

昭和四〇年に二六〇〇グラムの女児出産、他に自然流産一回

(2) 妊娠期間中の状況

前置胎盤。昭和四二年七月二九日血性帯下があり、第二日赤病院に四日間入院。同年八月六日再び血性帯下があり、同入院。

(3) 出産の状況

(a) 出産予定日 同年一〇月三一日

(b) 出産日 八月一八日

(c) 在胎期間 三〇週

(d) 分娩経過

八月一五日 前期破水、血性帯下

八月一八日 前置胎盤に加えて、胎児の心音不整となり、胎動も不活発となつたので午後二時二三分帝王切開手術を受けて分娩。

(二) 生下時の状況

(1) 体重 一四四〇グラム

(2) 全身状況

全身チアノーゼ、強度の呼吸困難(胸骨陥没呼吸あり、うめき声を発する)で、呼吸音微弱、心音正常

(三) 小児科診療の経過

(1) 出生後直ちに右病院小児科に入院して未熟児室内の保育器に収容(器内温度三三度、湿度八五パーセント)して濃度四〇パーセントの酸素投与開始。

(2) 入院中の担当医師

入院時から九月一〇日まで 田中健治

九月一一日から九月三〇日まで 野本直記

一〇月一日から退院(同月一八日)まで 緒方博行

(3) 主な臨床経過

(a) 呼吸状態など

入院時の体温三六度、脈拍数毎分一五六回、呼吸数毎分四四回とほぼ正常であつたが、全身にチアノーゼが著明で、努力様呼吸を続け、うめき声を発し、四肢に冷感が認められた。右田中医師は、原告朋宏が極小未熟児であるうえ、右の症状からして明らかに特発呼吸性障害などによる生命の危険が予想されたことから、前記のとおり同原告を保育器に収容して同病院の方針により、そのころ一般的に使用されていた東大小児科治療指針に則り、濃度四〇パーセントの酸素投与を開始したもので、更に、呼吸状態改善のためにビタカンファー(強心剤)0.1CC、テラプチク(呼吸促進剤)0.2CCを筋肉注射した(その後も三時間毎に七回注射)。なお、当日は保育器収容後も呻吟が持続し、呼吸速迫、胸骨陥没呼吸などが認められ、多呼吸(最高毎分七二)状態であつた。八月一九日(生後二日目)午前七時五〇分には呼吸が停止し、人工呼吸と強心剤により蘇生したが、全身チアノーゼで活気なく、時々かすかに啼泣するのみ。午前一〇時三〇分頃にはチアノーゼ軽くなる。午後二時、午後六時及び午後九時の三回にわたつて一五秒間ないし二〇秒間の無呼吸発作があり、刺激により回復。多呼吸状態が見られた。八月二一日(生後四日目)午後一〇時から午後一二時にかけて時々無呼吸状態となる。八月二二日(生後五日目)午前二時頃、プレミルク注入後しばらく無呼吸状態になり、全身に軽度チアノーゼが出現したが、自然回復する。なお、八月二〇日(生後三日目)以降、呼吸数は概ね六〇以下を維持し、呼吸状態も右記載した以外比較的安定した。

(b) 体重

生下時一四四〇グラムあつた体重は、八月二二日(生後五日目)には一二三〇グラムまで減少し、その後同月二四日(生後七日目)に一三一〇グラムまで増加して以後同月二九日まで増加傾向を示さなかつたが、翌三〇日から増加に転じて、その後は順調に増加して九月二日(生後一六日目)にはほぼ生下時の体重にまで回復し、退院前日の一〇月一七日(生後六二日目)には二八二〇グラムであつた。

(c) 栄養

八月二一日(生後四日目)からカテーテルによる鼻腔強制栄養を開始し、当初五パーセントぶどう糖液を初回は二CC、その後は三CCを二時間おきに六回にわたつて投与し、同原告に異常がないことを確認のうえ、二〇パーセントプレミルク三CCを投与し、その後順次増量していつた。九月一九日(生後三三日目)から授乳方法を鼻腔から経口投与に変更した。

(d) 酸素管理

イ 投与期間 出生直後から九月二二日(生後三六日目)まで

ロ 投与量及び濃度(濃度はミラー社製酸素濃度計により計測)

出生直後から八月三〇日朝まで、毎分1.5リットルないし二リットルを投与し、酸素濃度は四〇パーセント程度を維持し、その後二五パーセント程度にしたが、野本医師は、原告朋宏の症状がほぼ安定し、哺乳力も良好となり、体重も二〇〇〇グラムに達した九月二二日の時点で酸素投与を停止した。

(4) 九月二二日(生後三六日目)に保育器から出しコットに移床したが、その後順調に成育して一〇月一八日(生後六二日目)に退院した。

(四) 眼症状について

(1) 同原告は、一一月一四日及び一五日の両日第二日赤病院眼科を受診し、一四日は小泉医師、一五日は則竹医師の診察を受けた結果、前眼部所見として、左眼球内斜、左眼の瞳孔対光反射は迅速、眼底所見として、左眼については、乳頭やや混濁、網膜全体梢灰白色に混濁し、乳頭下方に網膜剥離の疑いが認められ、右眼については、耳側下方より上方にかけて網膜剥離が認められ、左眼内斜視、両眼網膜剥離の疑いと診断された。なお、小泉医師は、右所見及び同原告に多指症の先天異常があつたことから、「鎌状剥離」の疑いをもつた。

(2) その後、昭和四四年一月七日の眼底検査の結果は、左眼内斜視、両眼底乳頭梢蒼白、混濁、境界不鮮明、網膜剥離が疑われる、というものであり、更に、同年一二月二日にも診察を受けたが、診断結果にこれまでと著しい変化はなく、初診以来の病変は瘢痕性の変化であつて治療の余地はなく、間もなく、強度の弱視となつた。

(3) 以後弱視のまま推移していたところ、同原告は、昭和五三年一〇月(小学五年生)に両眼の異常を訴え、その後網膜剥離を起こし、昭和五四年二月頃両眼とも失明するに至つた。なお、これより先の昭和四八年一〇月三一日、同原告は順天堂大学附属順天堂医院において田鍋庸子医師の診察を受け、「両未熟児網膜症、眼球振盪症、視力遠見両眼0.1、近見両眼0.2」の診断を受けている。

6  原告光昭

原告光昭が、昭和四四年二月二〇日、第二日赤病院において、在胎週数二九週、生下時体重一三〇〇グラムの未熟児として出生したこと、出生後、同病院産婦人科の木戸医師の指示で直ちに保育器に収容され、以後同病院小児科八木医師の管理のもと同年三月二四日(生後三三日目)までのうち、出生日から同年二月二八日までの九日間は濃度(以下同じ。)三五パーセント、同年三月一日から同月八日までの八日間は三〇パーセント、同月九日から同月二〇日までの一二日間は二五パーセント、同月二一日から同月二四日までの四日間は二三パーセントの酸素投与を受けたこと、同病院入院中の同年三月一三日(生後二二日目)と同月二〇日(生後二九日目)との二回、則竹医師の眼底検査を受けたところ、異常が認められないということであつたこと、しかるに、同年七月五日(生後一三六日目)、同病院眼科の小泉医師による眼底検査を受けたところ、同原告の両眼とも既に本症による網膜剥離がみられ、瘢痕症状を呈しており、間もなく両眼とも失明したことは、関係当事者間に争いがなく、右争いのない事実に、<証拠>並びに弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められ、右認定を覆すに足る証拠はない。

(一) 出生経過

(1) 母親(原告浅子)の妊娠・出産歴

分娩二回(三三〇〇グラム及び三〇〇〇グラムの女児)、人工流産二回、胞状奇胎による流産一回

(2) 妊娠期間中の状況

妊娠後二か月ないし五か月にかけて食欲不振、悪心、嘔吐が、七か月頃下肢に軽度の浮腫が認められたほかは異常なく推移したが、昭和四四年(以下同じ。)二月一六日不正性器出血少量、下腹部緊満症状があり、同月一八日第二日赤病院で受診し、切迫早産または前置胎盤の疑で即日同病院に入院した。

(3) 出産の状況

(a) 出産予定日 五月一二日

(b) 出産日 二月二〇日(予定日より八一日早く出産)

(c) 在胎期間 二八週と三日

(d) 分娩経過

二月二〇日午前五時三〇分 人工破水、陣痛発来

同日午前五時三三分 後頭位にて分娩

(二) 生下時の状態

(1) 体重 一三〇〇グラム

(2) 全身状況

頸部に臍帯巻絡一回あり、仮死状態(その程度はアプガースコア六点)でチアノーゼが著明であつた。

(三) 小児科診療の経過

(1) 出生後直ちに右病院小児科に入院し、未熟児室内の保育器(アトムV―55型、器内温度三四度、湿度七五パーセント)に収容。

(2) 入院中の担当医師 八木良造(但し、入院時は産婦人科の木戸医師が担当)

(3) 入院時の臨床経過

体温34.8度、脈拍数毎分一三七回、呼吸数毎分三七回、鼻翼呼吸、努力呼吸が認められる。また、体動は非常に弱く、泣声も弱いうえ、全身にチアノーゼがあり、四肢冷感、軽度の呻吟も認められる。そこで、木戸医師は、右症状からして、特発性呼吸障害などによる生命の危険があると判断し、保育器に収容し、濃度約三五パーセントの酸素投与を開始した。なお、同日午前一〇時五〇分の状態は、陥没呼吸がしばしばあり、チアノーゼが認められ、運動は非常に弱く、泣声も弱いというもので、同時点で診察にあたつた八木医師は、右同条件による酸素投与の継続を指示した。

(4) 以後の主な臨床経過

(a) 呼吸状態

出生後一週間は呼吸は不規則、浅表で陥没呼吸、呻吟も認められたが、二月二七日(生後八日目)からは数回陥没様呼吸が認められたものの、かなり落ち着きをみせ安定していた。しかるに、後記のとおり三月二四日に酸素投与を中止した後の四月五日(生後四五日目)に至り再び陥没呼吸が認められ、その程度は徐々に軽度になつたものの、六月二五日(生後一二六日目)まで続いた。

呼吸数は、入院当初は最高で毎分六六あつたが、その後概ね毎分六〇以下で推移した。しかるに、四月中旬から最高で毎分六〇を超えることが多くなり、その状態は七月二五日の退院近くまで続いた。

(b) 体温

出生後三月一日(生後一〇日目)まで三四度台の低体温状態が継続したが、同月二日(生後一一日目)以降三五度ないし三六度台まで回復した。ところが、三月一七日(生後二六日目)頃から再び下降し始め、同月二一日、二二日(生後三〇日目、三一日目)には三四度台を、同月二四日(生後三三日目)には三三度五分の低体温を記録したが、その後次第に上昇した。

(c) 体重

出生後減少を続け、二月二五日(生後六日目)には一一四〇グラムまで減少したが、その後増加傾向に転じ、三月八日(生後一七日目)にほぼ生下時体重にまで回復し、その後も順調に増加した。

(d) 栄養

出生後四日間の飢餓期間を置いた後、二月二四日(生後五日目)からカテーテルによる鼻腔栄養を開始し、まず五パーセントぶどう糖液三CCを三時間毎に四回投与し、翌二五日から一五パーセントの明治FMミルク三CCを三時間毎に三回投与し、以後順次増量して四月一六日(生後五六日目)以降経口投与に切換えた。

(e) 酸素投与

イ 投与期間 二月二〇日出生直後から三月二四日(生後三三日目)まで

ロ 投与量(ミラー社製酸素濃度計により酸素濃度を計測)

投与開始後二月二七日(生後八日目)まで濃度三五パーセントの酸素を投与した。その結果一般状態に改善の傾向が認められたとの判断で、濃度を低減し、翌二八日(生後九日目)から三月七日(生後一六日目)まで濃度三〇パーセントの酸素を投与した。同月八日には体重がほぼ生下時体重にまで回復し、呼吸状態も安定したものの、なお低体温が続いていることや、四肢の冷感を考慮し、酸素濃度の急激な低減による低酸素症を防止するため、以後当時の第二日赤病院における未熟児保育に対する酸素投与の原則に基づき、同日から同月一九日(生後二八日目)まで濃度二五パーセント、同月二〇日(生後二九日目)から同月二三日(生後三二日目)までは濃度二三パーセントと酸素濃度を徐々に低減し、同月二四日(生後三三日目)に酸素投与を停止した。

(f) その他

二月二四日(生後五日目)から黄疸が出現し、三月八日(生後一七日目)まで続いた。

(5) 四月九日(生後四九日目)に保育器から出してコットに移す。

(6) 七月二五日(生後一五八日目)退院。

(四) 眼科診療の経過

(1) 第二日赤病院眼科の則竹医師が、三月一三日(生後二二日目)及び同月二〇日(生後二九日目)の二回にわたり眼底検査を実施したところ、左眼は異常が認められず、右眼は網膜色調は正常であり、出血斑が一か所認められたものの新生児の出産時にみられるものと同一であり、眼底は両眼とも異常なしと診断された。これにより当時の知見からして八木医師は、原告光昭に本症の発症はないものと判断した。

なお、同病院においては、昭和四三年末頃から未熟児の眼底検査にみられる先天性疾患及びRLF(水晶体後部線維増殖症)についての実態を把握する目的で、同病院眼科医師が小児科医師の了解を得て眼底検査を実施していたもので、原告光昭に対する右眼底検査もその一環として行われたものである。

(2) しかるに、七月五日(生後一三六日目)、小泉医師が再度眼底検査を実施したところ、同原告の両眼底とも増殖組織は著明で、網膜面よりかなり膨隆している模様であり、一部網膜剥離の疑いが認められた。同医師は、右症状をもつて本症の活動期のⅣ期から瘢痕期Ⅳ期に移行しつつある症状と判断したが、本症と断定できなかつたことから「水晶体後部繊維形成症」との診断名を付けた。

7  原告政子

原告政子が、昭和四四年八月一八日、第二日赤病院において、在胎週数三〇週、生下時体重一〇六〇グラムの未熟児として出生し、出生後身原医師の指示で直ちに保育器に収容されたこと、小泉医師が、昭和四四年一〇月二七日、同原告の眼底検査を実施して光凝固の必要ありと判断し、府立医大病院に転院させたことは、関係当事者間でいずれも争いがなく、同原告が、好地医師の管理のもと同年一〇月二九日(生後七三日目)までのうち、出生日から同年九月六日までの二〇日間は三五パーセント、翌七日から同月二八日までの二二日間は三五パーセント、同月七日から同月二八日までの二二日間は三〇パーセント、以後漸減し、同年一〇月八日にはいつたん停止したものの、翌九日から同月二〇日までの一二日間は三五パーセント、同月二一日、二二日の二日間は五〇パーセント、同月二三日から同月二六日までの四日間は三五パーセント、以後漸減の酸素投与を受けたことは、同原告及び同原告両親と被告日赤との間で争いがなく、被告京都府との間では弁論の全趣旨によりこれを認める。そして、府立医大病院の医師らが、同年一一月六日(生後八一日目)に谷医師の執刀により原告政子の左眼に光凝固を、更に同年一二月五日にも同手術を施行したが、いずれも功を奏さず、同原告が間もなく両眼とも失明するに至つたことは、同原告と被告京都府との間で争いがなく、この事実については被告日赤において明らかに争わないから自白したものとみなす。そこで、以上の事実に、<証拠>並びに弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められ、右認定を覆すに足る証拠はない。

(一) 出生経過

(1) 母親(原告捷代)の妊娠、出産歴

正常分娩一回、死産一回、自然流産一回等

(2) 妊娠期間中の状況

昭和四四年八月一八日午前四時頃多量の性器出血あり、同日午前一一時四五分頃第二日赤病院産科に入院した。

(3) 出産の状況

(a) 出産予定日 昭和四四年(以下同じ。)一一月一日

(b) 出産日 八月一八日

(c) 在胎期間 三〇週(予定日より七五日早く出産)

(d) 分娩経過 入院後、双胎、前置胎盤と診断され、同日午後一時五〇分腰椎麻酔のもとに帝王切開により双胎女児分娩。原告政子は第一子であり、第二子は生下時体重一四〇〇グラムであつたが分娩直後に死亡。

(二) 生下時の状況

(1) 体重 一〇六〇グラム

(2) 全身状況 仮死状態(仮死の程度アプガースコア六点)で出生し、全身にチアノーゼが著明であつた。

(三) 小児科診療の経過

(1) 出生後直ちに右病院小児科に入院し、未熟児室内の保育器に収容(器内の温度三三度、湿度八〇パーセント)して濃度三五パーセントの酸素投与開始。

(2) 入院中の担当医師 好地利栄子

(3) 入院時の臨床経過

体温三五度、脈拍数毎分一一五回、呼吸数毎分六〇回、心音は整調であつたが呼吸音は雑で、陥没様呼吸で呻吟が認められ、全身皮膚蒼白(間もなく皮膚色良好となる。)、四肢末端に軽度のチアノーゼが認められた。

(4) 主な臨床経過

(a) 呼吸状態等

チアノーゼは、同月一九日(生後二日目)にはいつたん軽快したものの、その後同月二六日(生後九日目)にみられたほか、九月九日(生後二三日目)に地図状チアノーゼが出現し、以後同月二八日(生後四二日目)頃まで同症状がみられた。

入院後、陥没様呼吸、不規則呼吸、速迫呼吸といつた症状が続き、八月二三日(生後二三日目)午後五時三〇分頃から午後八時頃にかけて数回呼吸停止を来したほか、同月二四日(生後七日目)から同月二六日(生後九日目)にかけて一日に数回無呼吸発作をおこした。その後も、時々不規則呼吸、浅表、速迫呼吸、軽度の陥没呼吸がみられたが、同月二九日(生後一二日目)から呼吸状態は安静に向かい、九月二〇日(生後三四日目)にはほぼ安定した。

(b) 体温

出生後数日は三四度台が続き、その後も暫く三五度台が続いたが、九月一一日(生後二五日目)頃から三六度を超えるようになつた。

(c) 体重

生下時一〇六〇グラムあつた体重は、同月二三日(生後六日目)には一〇〇〇グラムまで減少し、以後約五日間は増加不良であつたが、その後徐々に増加して同月三〇日(生後一三日目)に一〇七〇グラムとほぼ生下時体重まで回復し、以後は順調に増加した。

(d) 栄養

生後三日間の飢餓期間を置いた八月二一日(生後四日目)からカテーテルによる鼻腔栄養を開始し、当初五パーセントぶどう糖液を投与し、同原告に異常がないことを確認のうえ、漸次その量を増加し、同月二三日(生後六日目)から一〇パーセントダイヤGミルクを授乳し、同月三〇日(生後四四日目)ミルクの経口投与を開始した。

なお、脱水傾向がみられたため、同月二五日(生後八日目)から九月一〇日(生後二四日目)までビタミン剤を混ぜた輸液を行つた。

(e) 酸素管理

イ 投与期間 出生直後から一〇月八日(生後五二日目)まで及び同月九日(生後五三日目)から同月二九日(生後七三日目)まで

ロ 投与濃度(濃度はミラー社製酸素濃度計により計測)

投与開始後九月六日(生後二〇日目)までは三五パーセントの、同月七日(生後二一日目)から同月二八日(生後四二日目)までは三〇パーセントの酸素投与。その後、同月二九日(生後四三日目)と同月三〇日(生後四四日目)は二八パーセント、一〇月一日(生後四五日目)から同月三日(生後四七日目)までは二六パーセント、同月四日(生後四八日目)からは二三パーセントと濃度を漸減して投与し、同月八日(生後五二日目)一旦投与を中止した。

その後、後記のとおり翌九日(生後五三日目)行われた眼底検査の結果に基づき、本症に対する治療法として、再び保育器に収容のうえ同日から同月二九日(生後七三日目)まで酸素を再投与(同月九日から同月二〇日までは三五パーセント、同月二一日、二二日は五〇パーセント、同月二三日から同月二六日までは三五パーセント、同月二七日は三二パーセント、以後二八ないし三〇パーセント)した。

(四) 眼科診療の経過

(1) 第二日赤病院における経過

(a) 一〇月九日(生後五三日目)第一回眼底検査、担当小泉医師

(検査結果)両眼とも網膜血管後極部まで強く拡張蛇行し、特に耳側末梢において著しくかつ多数の出血を伴い、網膜は、膨隆し雲状に中程度の混濁がみられた。

右症状は、同医師としては初めてみる本症の活動期病変であり、それまで知見していた病期のいずれにも該当しない型のように思われたが、オーエンスⅡ期の病変を極度に誇張した症状であつたので、組織増殖は認められなかつたもののオーエンスⅢ期と判定した。

治療として、保存療法をまず優先すべきであるとの見解のもとに、酸素の再投与と副腎皮質ホルモンの使用を試み、一〇月九日から保育器に再収容して濃度三五パーセントの酸素投与とリンデロン水溶液三CCを経口投与した。

(b) 同月一四日(生後五八日目)第二回眼底検査、担当小泉医師

(c) 同月一六日(生後六〇日目)第三回眼底検査、担当小泉医師

(検査結果)両眼後極部はほぼ正常色調、血管は全体に強く拡張蛇行し耳側末梢に出血多数、皺襞状網膜混濁著明。従前の眼底検査時より血管の拡張及び出血がやや軽快しているようにみられた。なお、従来どおり酸素療法と副腎皮質ホルモンの投与を続けた。

(d) 同月二一日(生後六五日目)第四回眼底検査、担当小泉医師

(検査結果)両眼、血管拡張及び出血は変化がないが、耳側末梢に網膜剥離及び増殖が増加。同時点で、酸素投与を五〇パーセントに増量した。

(e) 同月二三日(生後六七日目)第五回眼底検査、担当則竹医師

(検査結果)両眼、網膜出血は変化なし。血管の拡張蛇行はなお著明、網膜剥離及び増殖は変化なし。酸素投与の効果が認められなかつたので、再び徐々に低減することとし、同日より濃度を三五パーセントに低減した。

(f) 同月二七日(生後七一日目)第六回眼底検査、担当小泉医師

(検査結果)右眼については増殖変化が著明、出血は軽度、血管拡張は変化なし。左眼については増殖組織は右より軽度。同時点で、小泉医師はオーエンスⅢ期に属するものと判断し、他に術がないため光凝固を受けさせるべく府立医大病院と連絡をとつた。なお、同日酸素濃度を三二パーセントに低減した。

(g) 同月二九日(生後七三日目)

酸素投与を停止したうえ、府立医大病院に転院した。

(2) 府立医大病院における経過

(a) 府立医大病院転院後、眼科外来において、吉川医師が原告政子の眼底検査を試みたが、同原告の症状は初めての症例であり、正確な眼底所見を把握することが困難であり、また外来での眼底検査に時間をかけ、感染症に罹患する危険のあることを配慮し、外来での眼底検査が十分できない状態で打切り、同原告を入院させた。

(b) 入院後の措置

(小児科医の診察)

原告政子の入院以降、小児科の畑佐医師が診察、保育にあたり、入院後一〇月三一日まで一分間一リットルの酸素(濃度は二四ないし二五パーセント程度)を投与した。

(一般検査)

手術の可否を決定するため、X線写真撮影が行われ、放射線科医は、病的なものといえないものの右肺門部の陰影が強く、一般状態の経過観察が必要である旨指示した。

また血液検査、尿検査の結果、ヘマトクリットが少なく、貧血が認められたほかは、特に異常はなかつた。

(c) 一一月五日、眼科の医局会において、翌六日外来処置室で全身麻酔下にて眼底検査及び光凝固を施行することを決定し、麻酔科、小児科に連絡、その同意を得た。

(d) 第一回目の光凝固施行

一一月六日午後一時より、眼科の谷医師が執刀医、吉川医師が介助者となり、全身麻酔下で眼底検査及び一回目の光凝固が施行され、第二日赤病院の小泉医師らが立会した。

なお、術前に谷医師、吉川医師らが眼底検査を行つたところ、右眼の眼底所見は、後極部は一部見えたものの、増殖性病変が強く、水晶体の後面にまで及んで伸張していることが認められた。

手術に立会した小泉医師により、同病院における眼底検査結果に比し、病状が急進展していることが確認され、右眼に対する光凝固の施行は断念することとなつた。

他方、左眼の耳側上方、下方は静脈血管が怒張しており、周辺部網膜の増殖性変化、血管新生が認められ、鼻側は上方の一部にのみ増殖性変化が認められたが、耳側ほど強くはなかつた。

視神経乳頭は蒼白なるも、やや色調が悪く、オーエンスの分類によればⅢ期であり、光凝固の適応時期と判断された。(光凝固の施行)

右眼底検査をふまえ、原告政子の左眼に対する光凝固を施行した。

凝固方法は、視野五(標準)、強さ三(標準)、イリスデイアフラグマ六として凝固した。

先ず、試験的に一、二発凝固し、凝固斑が淡い白色を呈し、凝固方法が適切であることを谷医師、吉川医師らが確認した後、左眼の耳側上方部分を約三〇発、その後鼻側上方部分を約三〇ないし三五発、更に耳側下方部分を約二五発、順次凝固した。

鼻側上方の凝固中、軽度の出血が認められたが、これは新生血管の凝固により通常見られる出血であつて、止血剤(マネトール)を注射し、止血させた。

更に、耳側下方部分につき凝固(五八発目)したとき、出血が認められ、その後凝固の強さを二に減した。

なお、右施術中である午後三時三〇分から四時にかけ、原告政子の呼吸が停止し、人工呼吸を行つて回復させた。このため、麻酔医は、心臓専門医の診察を求め、小児科の畑佐医師が診察し、呼吸性不整脈が認められるものの、心臓に異常のないことを確認のうえ、午後四時三〇分手術を終了した。

(e) 吉川医師らは、原告政子の手術後の病状を把握するため、眼底検査の施行を希望したが、麻酔科医は未熟児である同原告に全身麻酔をかけて手術をした後、再度全身麻酔をかけるには、危険を防止するため約二週間程度期間をあけるよう要請した。

そこで、右期間を経過した一一月二〇日、吉川医師らが、小児科医及び麻酔科医と協議の結果、同原告の一般状態は良好であるものの、貧血が認められるほか、第一回目の手術中に呼吸停止が認められたこともあり、麻酔をかける時間を極力短縮して眼底検査を施行することになり、一一月二一日午前八時三〇分から、吉川医師らが、全身麻酔下で眼底検査を施行した。

その結果、左眼の視神経乳頭の境界は不鮮明であり、硝子体出血が認められた。

耳側下方部分は、光凝固により萎縮した網脈絡膜の領域の色素沈着が認められ、血管増殖の傾向もなく、血管の細くなつていることが確認された。

他方、耳側上方部分は、柔らかな灰白色の色調を有する領域に光凝固の凝固斑が認められず、病変は新鮮で、第一回目の手術時に比し、血管増殖は認められなかつたものの、今後増殖する可能性があるものと判断された。

(f) 一一月二六日、眼科の検討会において、右眼底検査の結果をふまえて検討し、原告政子の左眼・耳側上方部分に、再度光凝固を施行することを決定した。

そして、翌二七日、小児科に対し、一般状態の検査を依頼し、一二月二日血液検査、尿検査を行い、異常のないことが認められた。

翌三日、右診察及び検査結果に基づき、小児科及び麻酔科は、同原告に対する再手術を了承した。

(g) 第二回目の光凝固施行

一二月五日、中央手術室において、谷医師が執刀医、吉川医師が介助者となり、全身麻酔下で、原告政子の左眼の眼底検査及び第二回目の光凝固が施行された。

(術前の眼底検査)

同原告の左眼は、鼻側半分の網膜は色調が悪いが、増殖巣は殆んど認められず、また、耳側下方の四分の一は、増殖巣が殆んど認められなかつた。

耳側上方部分の病巣部分は、一一月二一日の眼底検査と同様、病変が新鮮であり、この部分につき二回目の光凝固の施行を決定した。

(光凝固施行)

凝固方法は、強さを三、時には四とし、その余は第一回目の手術と同様として、左眼の耳側上方部分を八〇発凝固した。

新生血管がつい立状となつている部分は、増殖性変化を起こしているものと判断されたが、当該部位を直接凝固することができないため、その手前部分を凝固した。

新生血管を凝固した場合、新生血管が脆弱なため出血することがあり、原告政子についても、一発目の凝固により硝子体への出血が認められ、強さを四として追加凝固することにより、止血の処置をとつた。

午後三時三〇分第二回目の手術が終了した。

(h) 根来医師は、右診察結果及び原告政子に対しこれ以上光凝固を施行できないことを総合判断し、数ケ月後に再検査することとして、同日退院させた。

(i) その後、昭和四五年一月一九日、第二日赤病院眼科において診察を受けたところ、両眼とも失明したことが確認された。

8  原告弥生

原告弥生が、昭和四六年三月六日、第二日赤病院において、在胎週数二九週、生下時体重一一六〇グラムの未熟児として出生し、出生後三好医師の指示で直ちに保育器に収容されたことは、関係当事者間で争いがなく、同原告が、三好医師の管理のもと同年五月三日(生後五九日目)までのうち、出生日から同年三月一四日までの九日間は三〇パーセント、翌一五日から同月二一日までの七日間は二七パーセント、同月二二日から同年四月二五日までの三五日間は二五パーセント、翌二六日から同年五月三日までの八日間は二三パーセントの酸素投与を受けたこと、その間の五月六日(生後六二日目)に、同病院眼科初田医師による眼底検査を受け、更に同月七日(生後六三日目)から同月一五日(生後七一日目)までの間に六回にわたり小泉医師及び初田医師の眼底検査を受けたことは、同原告及び同原告両親と被告日赤との間で争いがなく、被告京都府との間では弁論の全趣旨によりこれを認める。そして、右眼底検査の結果、光凝固の必要ありということで、同年五月一七日府立医大病院に同原告が転院したことは、関係当事者間に争いがなく、府立医大病院の医師らが、同月二四日に第一回の光凝固を実施し、その後更に同手術を施行したが、いずれも功を奏さず、同原告が間もなく両眼とも失明するに至つたことは、同原告及び同原告両親と被告京都府との間で争いがなく、この事実については、被告日赤において明らかに争わないから自白したものとみなす。そこで、以上の事実に、<証拠>及び弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められ、右認定を覆すに足る証拠はない。

(一) 出生経過

(1) 母親(原告多津子)の妊娠、出産歴

昭和四三年に出産、他に自然流産一回

(2) 妊娠期間中の状況

昭和四五年一一月頃気管支炎となり、同年一二月頃より第二日赤病院内科において通院加療を受けていたが、昭和四六年一月二二日頃から症状が悪化し、強度の喘息発作に伴い喘鳴、呼吸困難、咳漱、睡眠不良、食欲不振で三日前より摂取せず等の症状が認められ、同月二五日右内科に入院した。しかし、軽快しなかつたばかりか、妊娠が母胎に負荷となつて、喘息様症状が持続したため、中絶が検討され、同年三月三日には誘発分娩を決定し、ブジー二本が挿入された。

(3) 出産の状況

(a) 出産予定日 昭和四六年(以下同じ。)五月二三日

(b) 出産日 三月六日(予定日より七八日早く出産)

(c) 在胎期間 二九週

(d) 分娩経過

三月六日 内科的治療にて右(2)の症状が軽快せず、妊娠継続により母体の生命が危ぶまれたため人工破水。

同日午前一一時四三分 骨盤位(複殿位)にて分娩。

(二) 生下時の状況

(1) 体重 一一六〇グラム

(2) 全身状況 仮死状態(仮死の程度アプガースコア五点)で出生し、全身にチアノーゼが認められ、五分間酸素吸入による蘇生術を行う。

(三) 小児科診療の経過

(1) 出生後直ちに右病院小児科に入院し、産婦人科の医師の指示で未熟児室内の保育器(器内温度三二度、湿度七〇パーセント)に収容して濃度三〇パーセントの酸素投与開始。

(2) 入院中の担当医師 三好鏡子

(3) 入院時の臨床経過

体温34.8度、脈拍数毎分一四四回、呼吸数毎分四八回、陥没呼吸、多呼吸、呻吟が認められ、呼吸状態は不良。顔面中央部、四肢末端にチアノーゼが認められた。なお、三好医師が、同日午後一二時三〇分に同原告を診察した時点の状態は、「多少多呼吸あり、陥没呼吸あり、泣声弱く手足にチアノーゼ、心音は純」というもので、同医師は、特発性呼吸窮迫症による生命の危険が予想される状態であると判断し、右酸素投与の継続を指示したうえ、感染防止の目的で、ビクシリンS(合成ペニシリン)一〇〇グラム、出血防止の目的でビタミンK1一ミリグラムを筋肉注射した。

(4) 以後の主な臨床経過

(a) 呼吸状態等

チアノーゼは、入院当日の午後二時頃に一旦軽減したものの、同日午後七時頃に顔面チアノーゼが強度となり、顔面及び四肢のチアノーゼは同月一〇日(生後五日目)まで認められたが、以後消失した。入院後暫くは呼吸状態が不良で、陥没呼吸、呻吟、不規則呼吸、速迫呼吸といつた症状が持続し、陥没呼吸は同月二一日(生後一六日目)までみられたが、同月下旬になつて呼吸状態は比較的安定し、その後、時々不規則呼吸、哺乳中における速迫呼吸が認められたものの、これらの症状も徐々に消失した。呼吸数は、四月下旬頃まで不安定で、特に三月下旬頃までは毎分七〇ないし八〇と多呼吸状態になることも多かつたが、五月以後徐々に安定した。

(b) 体温

入院後、同月一四日(生後九日目)までは三四度台の低体温が続いたが、その後三五度を超えるようになり、以後次第に上昇し安定に向かつた。

(c) 体重

生下時一一六〇グラムあつた体重は、三月九日(生後四日目)には一〇二〇グラムまで減少し、以後約一〇日間は増加傾向を示さなかつたが、その後徐々に増加して同月二七日(生後二二日目)に一一四〇グラムとほぼ生下時体重まで回復し、以後は順調に増加し五月一七日(生後七三日目)の退院時は二三六〇グラムであつた。

(d) 栄養

生後三日間の飢餓期間を置いた三月九日(生後四日目)からカテーテルによる鼻腔栄養を開始し、当初五パーセントぶどう糖液三CCを三時間おきに二回にわたつて投与し、同原告に異常がないことを確認のうえ、一七パーセントプレミルク三CCを投与し、その後順次増量していつた。四月三〇日(生後五六日目)から授乳方法を鼻腔から経口投与に変更した。なお、三月一五日(生後一〇日目)から同月一九日(生後一四日目)にかけて時々吐乳し、この間体重が減少した。更に、同月一六日(生後一一日目)から同月三〇日(生後二五日目)まで下痢が認められ、体重の増加が不良であつたため、整腸剤や下痢止めを投与したほか、五パーセントぶどう糖液一〇CC、リンゲル液一〇CC等の輸液の施行及び投薬が行われた。

(e) 酸素管理

イ 投与期間 出生直後から五月三日(生後五九日目)まで及び同月六日(生後六二日目)から同月一七日(生後七三日目)まで

ロ 投与濃度(濃度はミラー社製酸素濃度計により計測)

投与開始後三月一四日(生後九日目)までは三〇パーセントの、同月一五日(生後一〇日目)から同月二一日(生後一六日目)までは二七パーセントの酸素投与。その後、酸素濃度の急激な低減による低酸素症を防止するため、同月二二日(生後一七日目)から四月二五日(生後五一日目)までは二五パーセント、同月二六日(生後五二日目)から五月二日(生後五八日目)までは二三パーセントと濃度を漸減して投与し、同月三日(生後五九日目)投与をいつたん中止した。その後、後記のとおり五月六日(生後六二日目)行われた眼底検査の結果に基づき、本症に対する治療法として、再び保育器に収容のうえ同日から五月一七日(生後七三日目)の退院時まで三〇パーセントの酸素を投与した。

(f) その他

三月八日(生後三日目)に黄疸が出現し、その後増強するに至つたため同月一〇日(生後五日目)から輸液を施行したが、同月一九日(生後一四日目)まで同症状が続いた。

(四) 眼科診療の経過

(1) 第二日赤病院における経過

(a) 五月六日(生後六二日目)第一回眼底検査、担当初田医師

(検査結果)散瞳が悪い(特に左眼)、右眼底は、静脈が強く拡張蛇行し、耳側の周辺に無血管帯を伴つた網膜の増殖性変化が認められ、左眼底は、乳頭が不正円形(牽引乳頭)で血管新生を伴つた静脈拡張が著明であり、網膜の増殖性変化が強く、黄斑部領域に網膜前出血あり。

同医師は、原告弥生が本症に罹患し、少なくとも左眼は処置なしと診断した。

(b) 同月七日(生後六三日目)第二回眼底検査、担当初田医師

(検査結果)前同

(c) 同月一〇日(生後六六日目)第三回眼底検査、担当小泉医師

(検査結果)右眼は余り散瞳していない。両眼の乳頭やや変形、耳側血管の上下とも乳頭より著明に拡張蛇行し特に左眼に著しい。左眼は乳頭の耳側網膜滲出著明で黄斑部耳側に著明なる出血あり。耳側に網膜剥離を思わせる網膜混濁あり。右眼の網膜耳側も剥離を思わせる混濁著明。

同時点で、小泉、初田両医師協議の結果、本症の治療方法として、酸素の再投与及び副腎皮質ホルモンの使用を試みることとし、前記のとおり同日から五月一七日(生後七三日目)退院するまで三〇パーセントの酸素を再投与するとともに、ステロイドホルモン剤(リンデロンシロップ)を投与した。

(d) 同月一一日(生後六七日目)第四回眼底検査

(検査結果)非常に散瞳状態が悪い。右眼は、耳側に無血管帯(あるいは剥離)、血管帯やや赤黄色に膨隆し著明な血管新生を伴う、乳頭のすぐ下方に血管拡張蛇行及び新生血管著明。左眼は、耳側に無血管帯(あるいは剥離)、赤黄色に膨隆し著明なる血管新生あり、後極部に網膜前出血、乳頭の下方白色混濁(網膜下滲出の可能性あり)

(e) 同月一二日(生後六八日目)第五回眼底検査

(f) 同月一三日(生後六九日目)第六回眼底検査

(検査結果)両眼、境界線の瘢痕化傾向が著明。ただし、網膜の鼻側及びその部の血管は比較的所見が乏しく奇麗である。右眼、静脈拡張はなお著明、無血管帯の拡張傾向なし。左眼、無血管帯の出血を伴つた瘢痕形成を認める。全体としての印象は病気の進行は殆ど停止、瘢痕が進行していると同医師は判断した。

(g) これに対し、小泉医師は、右初田医師の見解とは異なり、後極部の血管拡張及び蛇行が非常に強かつたことからして、病気の進行が停止したのではなく、酸素療法及びステロイドホルモンの投与により滲出機転が抑えられた状態であると判断し、光凝固を行う適期であると考え、初田医師とも話し合いの結果、同手術を受けさせるべく同月一五日(生後七一日目)府立医大病院眼科を受診させた。

(2) 府立医大病院における経過

(a) 前同一五日、同病院において、根来医師が主治医となり、原告弥生を診察したが、開いていた瞳孔から眼底を見たところ、必ずしも正確な所見を把握しえなかつたものの、両眼の後極部の血管が怒張するとともに、血管新生及び血管同士の吻合も著明であり、周辺部の無血管帯では滲出病変が強く、硝子体中に盛り上り、左眼の硝子体に出血らしき赤い反射が認められたため、右眼よりも左眼が進行している旨、外来カルテに記載した。

なお、同日は入院できずに、同原告は一旦第二日赤病院に帰つて待機し、同月一七日午後三時五〇分府立医大病院に入院した。

(b) 入院時、根来医師が眼底検査を実施したが、同医師が確認しカルテに記載した所見は次のとおりであつた。

イ 右眼

耳側の静脈が高度に拡張しており、硝子体は白色に混濁し、網膜が腫脹している。鼻側はこれといつた所見は認められない。

ロ 左眼

硝子体出血が著明で詳細な所見は把握できず。

(c) その後、同原告は小児科の診察を受け、一般検査により異常がないことが確認された後、根来医師が、小児科医、麻酔科医とも協議して、五月二四日に光凝固を行うことが決定された。

(d) 第一回目の光凝固施行

五月二四日午後〇時三〇分から、古賀医師が執刀医、井沢、山本、今西の三医師が介助者となり、全身麻酔下で光凝固を施行し、根来医師は手術の後半頃から立会した。

右光凝固の施行方法は、強さを三ないし五、視野二、イリスデイアフラグマ六ミリとし、古賀医師が先ず、試験的に凝固し、淡い白斑が眼底網膜に出現することを確認したうえ順次凝固した。そのうち、右眼の耳側は、入院時の所見に比し、周辺部の網膜の腫脹、盛り上がりが進行し、鼻側には症状は認められなかつた関係上、耳側の増殖した血管の分岐部の箇所から、滲出性の隆起物のほうに向かい、七時から始め、一一時位までの範囲で、増殖した血管の分岐部の箇所は主として強さ三で、同部位より周辺部は淡い白斑が出にくいため主として強さ四、または五で凝固し、凝固数は合計四五ないし五〇発であつた。その後、術前に凝固すべき範囲と決めていた部分をほぼ凝固終了し、右眼の上耳側になお三、四発凝固すべき部位を残している段階で、光凝固の機械が故障したため、古賀、根来両医師らが相談し、凝固すべき範囲をほぼ凝固していることから、更に凝固すべき必要が認められた場合に追加することとして、同日の手術を終了した。

左眼は、入院時と同様、同手術時点でも硝子体出血が強く、光凝固はできなかつた。

(e) 第一回目の手術後の眼底検査

古賀、根来両医師は、同月二五日、二六日、二八日の三回にわたつて、ミドリンPにより原告弥生の両眼を散瞳し、眼底検査を施行した。その結果、右眼は、光凝固による凝固が十分であり、病変が進展する傾向も認められず、耳側の一部凝固できなかつた部位に対し再度凝固する必要はないものと判断された。

(f) 根来医師らは、右の眼底検査の結果から、原告弥生の病変の進行は停止するものと判断していたところ、同原告の母親である原告多津子が喘息発作を頻発し、救急室で治療を受けたことなどから、同原告両親の希望により、六月五日、同原告は府立医大病院を退院し、同病院の担当医がその後眼科外来で観察していくこととなつた。

(g) ところが、原告弥生は、六月八日午後三時頃より発熱し、嘔吐、下痢が認められ、髄膜炎の疑いにより翌九日府立医大病院の小児科に入院した。小児科医は、根来医師に、同原告が非常に重篤な症状である旨連絡し、根来医師と相談の結果、小児科で治療を行い、眼科において眼底検査を行うことができる状態まで回復した時点で、眼科に連絡して眼底検査を行うこととなつた。

(h) 根来医師らは、原告弥生が小児科の治療により症状が改善され、眼底検査を受けることが可能となつた六月一五日以降、以下のとおり眼科外来で眼底検査を行つた。

イ 六月一五日、担当根来医師

右眼の眼底所見は、視神経乳頭から後極部の血管が束状に走り、耳側の増殖性変化が強いところに牽引され、耳側周辺部は増殖組織が硝子体へ突出し、著明な膨隆が認められた。右眼の鼻側は、比較的色調がきれいで、境界線は認められず、その他の変化もなかつた。左眼は、病変が進行し、所謂後部水晶体線維増殖症に似通つた所見を呈していた。

ロ 同月二二日、担当根来医師

同月一五日の所見と変化が認められなかつた。

ハ 七月二日、担当根来医師

右眼の眼底所見は、耳側の堤防状に盛り上がつたところが、乳頭室のほうへ少し移動しており、牽引が強くなつているものと判断された。

ニ 七月九日、担当根来、古賀医師

右眼は、耳側が視神経乳頭から血管が索状に牽引され、耳側の盛り上がりが強くなつていることが認められ、耳側の一部で剥離を起しかけていた。他方、鼻側は全く所見が認められなかつた。

なお、七月九日原告弥生に行つた眼底検査の結果に基づき、医局の検討会で再手術の可否について検討し、右眼の鼻側に病変が認められず、耳側の一部に剥離が始まつている段階で、光凝固によつて剥離を防止できるか否かが問題となり、剥離を防止しうる確信はなかつたものの、剥離を防止しうる可能性がありうることから、再手術を決定し、小児科、麻酔科へ連絡し、その同意を得た。

(i) 第二回目の光凝固施行

七月一三日午後五時から、古賀医師が執刀医、岩瀬医師が介助者となり、原告弥生に光凝固術を緊急に施行した。

古賀医師が凝固した部位は、剥離を起している後極部寄りから、浮腫、増殖性変化の認められる部位であり、凝固方法は、一回目の光凝固と同一の方法で、視野を二、イリスデイアフラグマを二とし、後極部寄りの浮腫の少い部位は強さ三で五発、浮腫の強い部位は強さを四として一〇発、また増殖性変化をおこしている部位は強さを五として一五発を、それぞれ凝固した。同凝固により、焼灼が妥当であることを示す淡い白斑の認められた部位もあつたものの、殆どは、浮腫があるためやや白つぽい感じの凝固斑であつた。

(j) 原告弥生は、七月一四日府立医大病院を退院し、その後古賀医師は、以下のとおり、外来において同原告の眼底検査を継続した。

イ 七月二三日

右眼の眼底所見は、凝固による白斑が認められず、剥離の進展を防止することができず、水晶体後部に組織増殖が認められ、剥離が進展するものと判断された。

ロ 七月三〇日

右眼の眼底所見は、網膜の灰白色の色調が薄くなり、やや赤味を帯びていることが認められ、網膜に認められていた浮腫が光凝固により消退したものと判断された。しかし、剥離が進行しており、剥離を防止する方法はなかつた。

ハ 八月六日

右眼の眼底所見は、増殖性変化が下耳側に及んでいることが認められ、病勢は更に進展した。

(k) その後、間もなく、原告弥生は両眼とも失明するに至つた。

9  原告さつき

原告さつきが、昭和四八年二月一日、第二日赤病院において、在胎週数二九週、生下時体重一三七〇グラムの未熟児として出生したこと、同原告が、同病院入院中の三月二二日、同月二六日、同月二七日、同月二八日に眼底検査を受け、同月二九日に至つて府立医大病院に転院したことは、関係当事者間でいずれも争いがなく、同原告が、出生後八木医師の管理のもと同月二九日(生後五七日目)までのうち出生日から同年二月七日までの七日間は二八ないし三八パーセント、同月八日から同月一三日までの六日間は三〇パーセント、同月一四日から同年三月七日までの二二日間は二〇パーセント、同月八日から同月一六日までの九日間は二五パーセント、同月一七日から同月二二日までの六日間は二三パーセント、同月二三日から同月二九日までの七日間は二五パーセントの酸素投与を受けたことは、同原告及び同原告両親と被告日赤との間で争いがなく、被告京都府との間では弁論の全趣旨によりこれを認める。そして、府立医大病院眼科において、兼子医師の執刀により同年四月二日に、同病院眼科研修医であつた赤木医師の執刀により同月一一日に、それぞれ冷凍凝固法手術を実施したが、いずれも功を奏さず、同原告は間もなく両眼とも失明するに至つたことは、同原告及び同原告両親と被告京都府との間で争いがなく、この事実については被告日赤において明らかに争わないから自白したものとみなす。そこで、以上の事実に<証拠>並びに弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められ、他に右認定を覆すに足る証拠はない。

(一) 出生経過

(1) 母親(原告初子)の妊娠、出産歴

分娩一回(三九八〇グラムの女児)、人工流産一回、自然流産一回

(2) 妊娠期間中の状況

昭和四八年(以下同じ。)一月二七日午後九時三〇分早期破水があり、同日午後一一時二〇分第二日赤病院産科に入院した。

(3) 出産の状況

(a) 出産予定日 四月二〇日

(b) 出産日 二月一日(予定日より七八日早く出産)

(c) 在胎期間 二九週

(d) 分娩経過

二月一日午後二時二五分 誘導分娩により原告さつき分娩

(二) 生下時の状態

(1) 体重 一三七〇グラム(但し、二月二日現在)

(2) 全身状況

頸部に臍帯巻絡一回あり、羊水に異臭が認められ(混濁はなし)、全身にチアノーゼがあり、啼泣がなかつたため直ちに二分間の酸素吸入による蘇生術を行つた。なお、全身状態が悪く、体重測定は不能であつた。

(三) 小児科診療の経過

(1) 出生後直ちに右病院産科新生児室の保育器に収容され、小児科未熟児室内の保育器に転床されたのは、空床ができた二月七日であつた。

(2) 入院中の担当医師 八木良造(但し、入院時は産科の玉置医師が担当)

(3) 入院時及び入院当日の臨床経過

入院時、心音は純であつたが、呼吸音は弱く呼吸は浅表であり、陥没呼吸を伴い、呻吟及び全身のチアノーゼが認められ、モロー反射・足蹠反射を示さなかつた。

そこで、玉置医師は、右症状からして、特発性呼吸障害などによる生命の危険があると判断し、原告さつきを保育器に収容し、保育器の温度三二度、湿度八〇パーセントとし、濃度三五パーセントの酸素投与をするよう指示した。同原告は、保育器に収容後も依然として全身にチアノーゼが著明であり、陥没呼吸、呻吟、努力様呼吸、鼻翼呼吸を行つていたが、同日午後三時四〇分診察にあたつた八木医師は、保育器内の温度を三四度、湿度を八〇ないし九〇パーセント、酸素濃度を三〇パーセントにそれぞれ変更した。その際、感染防止のため、ビクシリンS(合成ペニシリン)一〇〇ミリグラム、出血防止のためビタミンK(止血剤)一ミリグラムを筋肉注射したが、体動、啼泣の反応は認められず、チアノーゼは全身著明であつた。その後、入院当日の夕方には元気に啼泣し、チアノーゼは徐々に軽快し体色も良好になつたが、軽度の陥没呼吸、口、鼻、四肢周辺のチアノーゼは継続した。

(4) 以後の主な臨床経過

(a) 呼吸状態等

生後二日以降も、不規則、浅表、速迫といつた呼吸の不良状態は続き、不規則呼吸は三月三日(生後三一日目)まで、浅表、速迫呼吸は同月一五日(生後四三日目)まで認められ、この間、二月七日、八日(生後七日目、八日目)に無呼吸発作が認められたほか、同月二二日(生後二二日目)には三回、翌二三日(生後二三日目)にもしばしば無呼吸発作が認められたが、三月七日から消失し、同月一五日には呼吸状態は正常に近くなり、以後安定した。

なお、二月三日(生後三日目)に黄疸が出現し徐々に増強したため、同月六日(生後六日目)光線療法による治療を行つたところ、その後徐々に軽快した。

(b) 体温

出生後、三月六日(生後三四日目)頃までは、三四度、三五度台が続いていたが、その後ほぼ三六度台を維持するようになつた。

(c) 体重

出生時一三八〇グラムあつた体重は減少を続け、二月五日(生後五日目)には一二二〇グラムまで減少したが、その後増加傾向に転じ、二月一三日(生後一三日目)に一三〇〇グラムを超え、更に同月二〇日(生後二〇日目)には一三八〇グラムと生下時体重を超え、その後次第に増加した。

(d) 栄養

出生後三日間の飢餓期間を置いた後、二月四日(生後四日目)からカテーテルによる鼻腔栄養を開始し、まず五パーセントぶどう糖液五CCを投与し異常のないことを確認した後、一五パーセントミルク五CCを投与し、以後順次増量して三月二一日(生後四九日目)以降経口投与に切換えた。

(e) 酸素投与

イ 投与期間 二月一日出生直後から三月二九日(生後五七日目)まで

ロ 投与濃度(ミラー社製酸素濃度計により計測)

投与開始後二月七日(生後七日目)まで二八ないし三八パーセントの、同月八日(生後八日目)から同月一三日(生後一三日目)まで三〇パーセントの酸素を投与した。その後、一般状態に改善の傾向が認められたとの判断で濃度を低減し、翌一四日(生後一四日目)から三月八日(生後三六日目)まで二八パーセントの酸素を投与した。同月九日には体温が三六度前後になつたこと、呼吸状態もかなり安定したことなどから、第二日赤病院における未熟児哺育に対する酸素投与の原則に基づき、同日から同月一六日(生後四四日目)まで二五パーセント、同月一七日(生後四五日目)から同月二二日(生後五〇日目)までは二三パーセントと酸素濃度を徐々に低減した。しかるに、三月二二日(生後五〇日目)実施した眼底検査の結果に基づき、低酸素状態を防ぐ意図で翌二三日(生後五一日目)から退院日の同月二九日(生後五七日目)まで濃度を二五パーセントに上昇させて投与し、同日投与を停止した。

(四) 眼症状の経過

(1) 第二日赤病院における経過

(a) 原告さつきの全身状態が安定して来たのを機に、第二日赤病院眼科の小泉医師が、三月二二日(生後五〇日目)に眼底検査を実施したところ、両眼底とも後極部の静脈がやや拡張、動脈は蛇行、全周にわたつて静脈拡張がかなり強く、血管新生が著明で、その部位の網膜が浮腫状に混濁していたものの、無血管帯との境界線は未だ不分明であつたというのであるが、カルテには「オーエンスⅢ期、要注意」と記載した。この記載について同医師は、右のとおり、無血管帯の境界線は未だ明らかでなく、右症状のみからすれば従来のオーエンスの分類ではⅠ期の状態であると思われたが、他方、無血管帯が全周にわたる症状は、初めて経験するもので、永田論文(乙第三八号証)や田辺論文(同第九三号証)を検討した結果、同原告の症状が急速に進行して剥離に移行する可能性もあると考え、光凝固の必要性も考慮に入れ、注意を喚起する意味も含めたという。ただ、実際には後極部の血管がやや拡張した程度であつたので経過観察することとし、酸素の減量後、本症発症の兆候がある場合には、減量前の酸素環境に戻すとの見解のもとに、酸素濃度を二五パーセントに上昇させるとともに、ステロイドホルモン剤(リンデロンシロップ)を投与した。

(b) 三月二六日(生後五四日目)小泉医師により二回目の眼底検査が実施された結果、両眼底特に右眼において、上方から鼻側更に下方にかけて、その末梢において浮腫状に混濁し、その場所の静脈拡張があり、無血管帯がかなり出現した。但し、耳側の無血管帯は、血管新生は強かつたもののあまり拡張しておらず比較的軽度であつた。全体としては、二二日よりもやや改善されたものの進行の可能性は強いと判断した。

(c) 三月二七日(生後五五日目)初田医師により三回目の眼底検査が実施されたが、二回目の症状とほとんど変化がなかつた。

(d) しかるに、三月二八日(生後五六日目)小泉医師により実施された眼底検査の結果、両眼底の耳側の血管増殖がやや増加し、鼻側血管はかなり拡張し、増殖が中等度と認められ、境界線は分明でなかつたが無血管帯の拡大が認められた。そこで、同医師は、オーエンスⅢ期に属すると判定したうえ、右のとおり、無血管帯の幅が拡がり、血管新生が少し増え、増悪の傾向が認められたことから、まだ余裕があるものの凝固術を行う必要性があると判断し、府立医大病院眼科の根来医師に依頼して、翌二九日(生後五七日目)原告さつきを府立医大病院へ転院させた。なお、転院させるについて、小泉医師が提供した原告さつきの本症についての情報は、「同原告の出生時の状況、生下時体重、在胎週数などの経過及び眼底検査の結果として非常に進展が早く、特に眼底の全周にわたつて無血管帯があり、新生血管も進んで周辺部の盛り上がりが強く、全周にわたつて滲出性病変が出て来たので、Ⅰ型とは形の違うものかも判らないし、進行も早いので、早く送りたい。」という趣旨であつた。

(2) 府立医大病院における経過

(a) 原告さつきは、前同二九日、眼科外来を受診した後、同日午前一〇時三〇分に入院し、当該同病院眼科の研修医で、本症につき知識及び経験の乏しい赤木医師が主治医となつた。

(b) 同月三〇日眼底検査が行われた結果、左眼は、全周にわたり無血管帯の幅が広く、後極部の血管が拡張蛇行しており、その外側が堤防状をなし、その上に新生血管が盛り上がつているのが認められ、オーエンスの分類でⅢ期の初めと判断された。右眼は、全周にわたり新生血管が認められたものの、左眼のように盛り上がるところまではいつておらず、左眼に比してその程度は軽く、オーエンスの分類でⅡ期の初めと判断され、四月二日に全身麻酔下で光凝固することが予定された。

(c) 四月二日午後四時三〇分から午後五時三〇分頃まで、城月医師が執刀医、赤木医師、岩瀬医師が介助者となり、局部麻酔下で冷凍凝固術が施行された。右手術方法が選択されたのは、同時点における原告さつきの全身状態が不良で、全身麻酔に耐えられないおそれがあつたことから、医局の検討会において光凝固よりも手術時間が少なく、局部麻酔で行うことが可能な冷凍凝固術の方が適切と判断されたことによるものである(なお、同日午前八時三〇分、同原告はいつたん手術室に入室したが、冷凍凝固機械が故障していたため、手術を行うことなく帰室し、機械の修理完了後右手術が行われた)。

なお、手術の状況は、まず、試験的に凝固して、淡い白斑が眼底網膜に出現することを確認し、その後、両眼の新生血管と無血管帯の境となる部分を全周にわたつて、右眼に一〇発、左眼に一一発冷凍凝固を行つた。なお、右凝固に際し、所々に表層性の出血が認められた。

(d) 手術後、同原告に呼吸性の不整脈が認められたため、同日午後六時以降、毎分四リットルの酸素を投与し、その後、翌三日には毎分三リットル、更に毎分一リットルと投与量を低減し、翌四日一般状態が良好になつたため酸素投与を中止した。

(e) 同月九日、眼底検査が施行された結果、右眼の眼底については、耳側、鼻側の全周に表層性の出血が認められ、乳頭下方部分にかなりの血液が認められたところ、右下方部分の血液は、表層性の出血が貯溜したもので、硝子体出血と判断された。他方、左眼の眼底については、耳側は前回の眼底検査時に認められた堤防状をなしてその上に盛り上がつていた新生血管が更に増殖しており、鼻側にも新生血管が認められ、この新生血管の外側に境界線らしきものが出現し、その全外周にわたつて無血管帯が存し、右の左眼の症状は進行するものと判断された。

そこで、眼科検討会で検討の結果、右眼は、表層性の出血は認められるものの眼底所見が進行していないため手術をせず、今後症状が進行するものと判断された左眼に対し、再度冷凍凝固を施行することを決定した。

(f) 四月一一日午後四時から午後四時四五分までの間、赤木医師が執刀医、根来医師、岩瀬医師が介助者となり、第一回目同様局部麻酔下で原告さつきの左眼に対し冷凍凝固術が施行された。その手術の状況は、まず前回同様にモニターをしたうえ、左眼の耳側において新生血管が硝子体中に突出していたため、時計方向で一時から六時までの間、新生血管領域及び無血管帯領域を八発連続して冷凍凝固した。その際、凝固部位から新生血管網の破壊による相当程度の表層性出血が認められた。

(g) 四月一四日施行された眼底検査の結果は次のとおりであつた。

(右眼) 耳側は、凝固部位に一致して出血が認められ、出血量は前回(四月九日)の眼底検査時より増加していたが、硝子体中に血管は侵入していなかつた。鼻側は、無血管帯に若干新生血管が伸びる傾向が認められた。

右眼全体としては、病状は進行していないものの、出血の増加が認められた。

(左眼) 耳側は、凝固部位に一致して少量の表層性出血が認められ、上方の硝子体中に血管侵入が認められた。鼻側は、出血が認められたものの前回(四月九日)の眼底検査時からあまり進行はしていなかつた。

(h) その後、四月一九日に眼底検査が施行されたところ、両眼とも相当な硝子体出血で病巣の進行を把握できず、母親の希望により退院した。

(i) 四月二五日、赤木医師が、外来で同原告の眼底検査を実施したところ、右眼は全周にわたつて剥離をおこしかけており、他方、左眼は、耳側で硝子体中に線維増殖が強く認められたが、鼻側は硝子体中に突出像は認められなかつた。

(j) その後、剥離が徐々に進展し、両眼とも失明するに至つた。

10  原告秀樹

原告秀樹が、昭和四三年六月一日、国立京都病院において、在胎週数二九週、生下時体重一三二〇グラムの未熟児として出生したこと、出生後、同病院産婦人科の小柴医師の指示で直ちに保育器に収容され、以後同医師の管理のもと出生日から同月一三日(生後一三日目)までは毎分二リットル、同月一四日(生後一四日目)から同月一八日(生後一八日目)までは毎分一リットル、同月一九日(生後一九日目)から同月二三日(生後二三日目)までは毎分0.5リットル、同年七月六日(生後三六日目)から同月七日(生後三七日目)までは毎分二リットル、同月八日(生後三八日目)から同月一二日(生後四二日目)までは毎分一リットル、同月一三日(生後四三日目)から同月一八日(生後四七日目)までは毎分0.5リットルの酸素投与を受け、更に、その後、肺炎症状に陥つたため同年八月八日(生後六八日目)に毎分二リットル、同月九日(生後六九日目)に毎分一リットル、同月一四日(生後七四日目)から同月二一日(生後八一日目)まで毎分二リットルの酸素投与を受け、同年九月七日、一度も眼底検査を受けることなく同病院を退院したことは関係当事者間に争いがなく、右争いのない事実に、<証拠>並びに弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められ、右認定を覆すに足る証拠はない。

(一) 出生経過

(1) 母親(原告美幸)の出産歴なし

(2) 出産の状況

(a) 出産予定日 昭和四三年(以下同じ。)八月二〇日

(b) 出産日 六月一日

(c) 在胎期間 二九週

(d) 分娩経過

五月三一日午後一〇時頃 前期破水

同日午後一一時 国立京都病院産婦人科に入院

六月一日午前〇時一五分 原告秀樹出産

(二) 生下時の状態

(1) 体重 一三二〇グラム

(2) 全身状況

出生直後元気に啼泣、体色正常、浮腫あり、カテーテルテスト異常なし、アプガースコア一〇点

(三) 診療の経過

(1) 出生後直ちに右病院小児科に入院し、未熟児室内の保育器(器内温度三〇度から三一度)に収容。

(2) 入院中の担当医師 (産婦人科)小柴壽彌(小児科)吉岡三恵子

(3) 入院時及び入院当日の臨床経過

入院時の在胎週数、生下時体重等を考慮した小柴医師の指示で、前記のとおり直ちに保育器(アトムV五五型もしくはジエム)に収容され、以後毎分二リットルの酸素投与を受けていたところ、午後七時頃無呼吸発作が起こり、心音が微弱で、顔面に強度のチアノーゼが出現したが、蘇生器を使用して数分後に正常となる。

(4) 以後の主な臨床経過

六月二日、三日(生後二、三日目) 頻回にわたる無呼吸発作あり(足底刺激により回復。)

同月四日(生後四日目) よく啼泣し、四肢運動活発、カテーテルを挿入して哺乳を開始したところ、開始後一〇分程でチアノーゼ出現。

同月五日(生後五日目) 夕方と午後一〇時三〇分の二回無呼吸発作、午後一〇時三〇分のときには強度の全身チアノーゼ出現(いずれも足底刺激では回復せず、その都度蘇生器を使用し一分後に回復)。

同月六日(生後六日目) 午前三時三〇分頃無呼吸発作により全身チアノーゼを認め、ビタカンファーの注射及び蘇生器の使用により五分後自呼吸開始。午前四時から午前八時の間酸素投与量を毎分三リットルに上げるとともに哺乳を中止しぶどう糖液及びビタミン剤の注入による栄養・水分の補給を行う。

同月七日(生後七日目) カテーテルを挿入して哺乳再開、チアノーゼ認められず。

同月八日(生後八日目) 午前二時、午前五時、午後七時の三回にわたつて無呼吸発作があり全身チアノーゼ出現(午前五時の際は蘇生器を使用。)。

同月一〇日(生後一〇日目) 午前六時一五分全身チアノーゼ出現(足底刺激ですぐ回復。)。その後、同じ保育器に収容されていた児が暴れて、原告秀樹に使用していたカテーテルを抜去したため、再挿入したが、格別の手当を必要とする事態は生じなかつた。

同月一二日(生後一二日目) 午後〇時頃、無呼吸発作を起こし全身チアノーゼ出現(足底刺激で回復。)。

同月一四日(生後一四日目) 全身状態が安定してきたことと、同月一二日九七〇グラムまで減少した体重が一〇〇〇グラムと増加に転じたこともあり、午後四時頃、酸素投与量を毎分一リットルに減少。

同月二〇日(生後二〇日目) 午前九時、酸素投与量を毎分0.5リットルに減少。

同月二四日(生後二四日目) 午後〇時頃酸素投与停止。

同月二八日(生後二八日目) 同じ保育器に収容の他の児により、同月一〇日と同様のカテーテルの抜去事故が生じた。しかし、格別の手当を必要とする事態は生じなかつた。

七月五日(生後三五日目) 午後一一時五〇分頃、授乳後三〇分ほどで全身チアノーゼ出現、無呼吸発作が起こる。直ちに、ビタカンファー、テラプチク等の注射とともに蘇生器を使用して八分後に自発呼吸を開始するも、なお、胸部陥没呼吸及び腹部膨満を認める。そこで、その頃毎分一リットルの酸素投与再開。

同月六日(生後三六日目) 午前二時頃から酸素投与量を二リットルに増加し、間もなく呼吸困難、チアノーゼなど消失。

同病院小児科吉岡医師が診察をしたところ、前日の無呼吸発作、全身チアノーゼ等はミルクの誤飲が原因と考えられたため、以後酸素投与量を減ずることとする。

同月七日(生後三七日目) 午前九時、酸素投与量を毎分一リットルに減少。

同月一一日(生後四一日目) 午後〇時頃、酸素投与量を毎分0.5リットルに減少、午後三時投与停止。

同月一三日(生後四三日目) 午前六時頃無呼吸発作が起こり、チアノーゼ出現。蘇生器使用により三分後自発呼吸開始。

そこで、その頃毎分一リットルの酸素投与を再開したが、同日午後九時に投与量を毎分0.5リットルに減少。

同月一四日(生後四四日目) 午前六時頃、授乳後約二〇分程で軽度のチアノーゼ出現(足底刺激ですぐ回復。)。

同月一八日(生後四八日目) 午前九時酸素投与停止。哺乳瓶による哺乳開始。

同月二九日(生後五九日目) 保育器から出し、コットへ転床。

八月五日(生後六六日目) 授乳中顔面に軽度のチアノーゼ出現(足底刺激により啼泣させ回復。)。

同月八日(生後六九日目) 午前五時一〇分頃、全身チアノーゼ出現。蘇生器を使用して約五分後にわずかに啼泣して蘇生。

そこで、保育器に再度収容して毎分二リットルの酸素投与を再開したが、同日午後二時投与量を毎分一リットルに減少。

同月九日(生後七〇日目) 午前九時酸素投与を停止し、午後一時再びコットへ転床。

同月一四日(生後七五日目) 午前一〇時頃、体温が37.7度まで上昇し、午前一一時突然に無呼吸発作を起こしチアノーゼ出現。そこで、直ちにビタカンファー等の注射をするとともに、保育器に収容して毎分二リットルの酸素投与再開。

その後も発熱が続き、肺炎の疑いも生じたため、同日午後四時二〇分頃同病院小児科に転科入院。

(転科時の症状等)

皮膚色調やや蒼白で、顔貌はやや苦悶状、脈拍数毎分一二〇、呼吸促迫(毎分三〇回)、呼吸困難で時折無呼吸発作あり、全肺域の呼吸音は粗で、四肢にチアノーゼあり、体温38.3度。X線所見では、全肺域やや暗く、肺紋理が増強。

吉岡医師は、肺炎に対処するための投薬を行うとともに、再度保育器に収容して毎分二リットルの酸素投与を開始。

なお、間もなく体色は良好となり、翌日にはチアノーゼもなくなり呼吸も次第に安定。

同月二一日(生後八二日目) 酸素投与停止。

同月二五日(生後八六日目) 保育器の電源を切つて窓を開放し、着衣。

九月七日(生後九九日目) 退院。

なお、生下時一三二〇グラムあつた体重は、六月一二日(生後一二日目)には九七〇グラムまで減少したが、その後増加傾向に転じ、同月二六日(生後二六日目)には一三一〇グラムとほぼ生下時の体重まで回復し、以後順調に増加した。

(四) 退院後の経過(眼症状)

昭和四四年一月二四日、同病院眼科を受診し田中好文医師の診察を受けたところ、右眼は小眼球で、両眼とも前房はやや浅く、瞳孔は滲出物によつて閉鎖し、虹彩は水晶体に癒着しており、同医師は、「両眼虹彩毛様体炎、瞳孔閉鎖症」と診断した。右診察の際、瞳孔が閉鎖していて眼底をみることは不可能であつたため、右医師は、眼底検査を行わなかつた。

以後、昭和四七年八月三〇日まで右眼科に通院して治療を受けたが、結局、両眼とも失明するに至つた。なお、昭和四六年一月一九日、天理よろず相談所病院において永田医師の診察を受け、更に、同年九月一七日、神戸大学医学部附属病院において診察を受けたが、いずれも本症に罹患したものと診断された。

11  原告亜希子

原告亜希子が、昭和四八年一二月一四日、京都市の渡辺産婦人科病院で出生したところ、在胎週数二九週、生下時体重一三八〇グラムの未熟児であつたため、同月一五日、京大病院未熟児センターに転院し、同日から同月一七日までの三日間、二三ないし三二パーセントの酸素投与を受けたこと、京大病院入院中の昭和四九年一月一四日(生後二九日目)に、雨宮医師による眼底検査を受けたところ、網膜周辺部に若干の混濁が見られるものの、血管の新生又は蛇行は見られないと診断されたが、その後、同年二月二一日に吉田医師による眼底検査を受けた結果、本症に罹患していることが判明し、オーエンスⅡ期と診断されたこと、その後、同病院では、同月二三日に本田医師、同月二五日に山元医師、同月二七日に内田医師が、それぞれ眼底検査を実施した後、同病院眼科の内田医師の執刀により同月二八日及び同月三月一一日の二度にわたり光凝固を行つたが、いずれも功を奏さず、原告亜希子は間もなく失明したことは、関係当事者間に争いがなく、右争いのない事実に、<証拠>並びに弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められ、右認定を覆すに足る証拠はない。

(一) 出生経過

(1) 母親(原告とき子)の妊娠、出産歴

昭和四七年に男児分娩(生下時体重三〇四〇グラム)、それ以前に流産(在胎三か月)一回。

(2) 出産の状況

(a) 出産予定日 昭和四九年二月二八日

(b) 出産日時 昭和四八年一二月一四日午後七時(予定日より七六日早く出産)

(c) 出産場所 渡辺産婦人科病院

(d) 在胎期間 二九週二日

(二) 生下時の状況

(1) 体重 一三八〇グラム

(2) 全身状況 呼吸呻吟、チアノーゼを認める。

(三) 診療の経過

(1) 昭和四八年一二月一五日午後〇時京都大学医学部附属病院未熟児センターに入院

(2) 入院時の担当医師 (小児科)馬場清ほか、(眼科)本田孔士ほか五名

(3) 主な臨床経過

入院時 体重一三一〇グラム、体温33.8度(低体温)、脈拍数一分間一〇四ないし一一〇で徐脈気味、呼吸数八〇と多呼吸で浅表性、不整強く、四肢のチアノーゼと冷感が認められ、モロー反射及び吸啜反射が弱い。

担当の馬場医師の指示で直ちに保育器(アトムV五五型)に収容(当初、器内温度34.5度、湿度九〇パーセント、酸素濃度四〇パーセント)午後三時には体温が三五度に上昇したので、酸素濃度を三三パーセントから二七パーセントに減じたが、午後八時になつて全身チアノーゼ及び浮腫が著明となつたので再び酸素濃度を三〇パーセントに増した。

同月一六日 全身体色黒つぽく軽度のチアノーゼあり、下肢に浮腫が著明、しんせいけいれんが見られる。午前六時に鼻中ゾンデにより哺乳を開始したところ無呼吸発作三回あり、全身黄疸色となる。濃度三〇パーセント前後の酸素投与を続ける。

同月一七日 脈拍の不整がなくなり、浮腫も軽減気味となり、全身状態の好転を認める。

酸素投与量を徐々に減じ、午後〇時に酸素投与を停止。

その後、同月二一日(生後八日目)に最低体重一一八〇グラムを記録したが、以後増加に転じ、昭和四九年一月七日(生後二五日目)に一四一五グラムとほぼ生下時体重に回復。その後の一般状態は概ね良好。

(四) 眼科診療の経過

昭和四九年(以下同じ)

一月一四日(生後三二日目) 在胎中の母胎の異状、在胎週数、出生後の経過及び酸素投与状況を書面に記載した馬場医師の依頼により眼底検査(第一回目、担当雨宮医師)(検査結果)乳頭牽引なし、網膜の周辺部に軽い混濁があるも血管の新生及び蛇行は見られず。

雨宮医師は、同時点で本症は発生していないと診断。

二月二一日(生後七〇日目) 眼底検査(第二回目、担当吉田医師)(検査結果)両眼眼底耳側三分の二周に境界線の形成あり、血管の新生、軽度の蛇行及びうつ血が認められる。無血管帯の幅はかなり広い。後極部はほぼ正常、出血及び硝子体に向かつての発芽は認められない。境界線は一部にわん入部が認められるがさして著明ではない。

吉田医師は、右症状を、本症のオーエンスⅡ期と診断し、二日後再度検査して、進行する傾向があれば光凝固の必要があると判断した。

同月二三日(生後七二日目) 眼底検査(第三回目、担当本田医師)(検査結果)両眼の境界線かなり深部、右眼黄斑方向にひだ状の増殖あり、出血なし、二月二一日の所見より増悪の傾向は認められないが軽度の滲出あり。

本田医師は、このまま二日間隔程度で経過観察し、増殖傾向があれば光凝固の必要があると判断し、二日後に検査する旨を小児科に連絡。

同月二五日(生後七四日目) 眼底検査(第四回目、担当山元医師)(検査結果)両眼の境界線著明。左眼は境界線上のわん入部が認められ、軽度血管新生あり、乳腫状灰色混濁。右眼は左眼底ほど著明ではなく、境界線が著明であるほかは左眼の状態ほど症状は進行していない。

山元医師は、二日後再検査して再び著明に変化が見られるかどうかを見て、光凝固が必要なときは緊急に行う旨判断し、二日後の受診を指示。

同月二七日(生後七六日目) 眼底検査(第五回目、担当内田医師)(検査結果)両眼網膜境界線が著明となり、血管新生が境界線上で硝子体腔へ向つて延び滲出も増強の傾向、網膜血管、殊に静脈の両側強く拡張、蛇行。

内田医師は、右症状から両眼につき光凝固適応と判断し、翌二八日午後の施行を決定した。

同月二八日(生後七七日目) 両眼光凝固(第一回目)施行(担当内田医師)

(手術経過)

同日午後一時三〇分施術室に入り、二パーセントキシロカイン液による球後麻酔の後、西独ツアイス社製光凝固装置により、正常強度(負荷)1、イリスブリンデ0、フォーカスブリンデ6、持続二分の一秒の条件で、境界線の両端を一列に凝固。但し、境界線上の神経増殖の箇所は凝固不能。術後、網膜出血、硝子体出血等の合併症は発生せず。

三月一日(生後七八日目) 眼底検査(担当内田医師)の結果、術後の合併症は認められず、境界線の深部及び無血管帯は良く凝固され、順調な瘢痕形成の進行が認められた。

同月四日(生後八一日目) 眼底検査(担当内田医師)の結果、左眼の境界線は吸収による改善の傾向が見られたが、右眼の境界線は未だ著明であつた。そこで、同医師は、三月七日に再診して、状況によつては右眼の再凝固も考慮することとした。

同月五日(生後八二日目) 午前一一時に退院。

同月七日(生後八四日目) 眼科外来にて眼底検査(担当内田医師)の結果、左眼は境界線の内側の凝固斑に瘢痕形成の開始が認められたが、右眼は静脈拡張が依然著明で無血管帯も広く残存したままであるので、同医師は三月九日再検査をしたうえで再凝固を考慮することとした。

同月九日(生後八六日目) 眼底検査(担当内田医師)の結果、右眼につき再度光凝固を行うことに決定。

同月一一日(生後八八日目) 右眼につき第二回目の光凝固施行、機械・担当者・施行条件は第一回目と同じ。

境界線の周辺部を目標に数発散発凝固するも凝固斑を認めず。周辺部に血管が伸びつつあつたため、自然寛解に向つていると判断して中止。

同月一四日(生後九一日目) 眼底検査(担当本田医師)の結果、右眼の血管が一部境界線を超えて周辺部に向つており、左右両眼境界線の内側に網膜剥離が現れていた。

同月一八日(生後九五日目) 眼底検査(担当本田医師)の結果、両眼とも網膜剥離、硝子体へ出血を認める。

同月二八日(生後一〇五日目) 眼底検査(担当本田医師)の結果、両側剥離減少、右眼より左眼に剥離著明。

九月三日 (京大病院眼科の最終診断)

両側やや小眼球的、眼底の両側耳側は周辺部水晶体後方に白色組織塊あり、ひだ状網膜剥離を伴う。乳頭より鼻側は剥離なし、但し強く変性している。

なお、本田医師の依頼により、天理よろず相談所病院眼科の永田医師が、三月一九日原告亜希子を診察して、「既に繊維形成が認められる相に入つているのでこれ以上光凝固をするのは無意味であり、このまま瘢痕化していくのを待つしかない。」と診断し、右京大病院の経過をもふまえて、「本例は、恐らく光凝固の効果の十分でない例外的な困難な症例(いわゆる混合型)であつたと思われ、境界線の凝固が難しいのは繊維形成が既に進行していたためと思われ、活動期病変より瘢痕期病変への移行期にあつたと思われる。」旨の見解を述べている。

12  原告浩二

原告浩二が、昭和四四年一二月三日、済生会滋賀県病院において、在胎週数二九週、生下時体重一四四〇グラムの未熟児として出生し、出生後西田医師の指示で直ちに閉鎖式保育器に収容され、以後同医師の管理のもと同月二六日まで二四日間にわたり二九ないし四二パーセントの酸素投与を受け、翌四五年二月四日同病院を退院したこと、退院後、同原告両親が同原告の眼に異常を感じ、同年五月一一日に京都市の吉川眼科で診察を受けたこと、同原告が間もなく失明したことは当事者間に争いがなく、右争いのない事実に、<証拠>並びに弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められ、右認定を覆すに足る証拠はない。

(一) 出生経過

(1) 母親(原告初子)の出産歴

熟産一回

(2) 出産の状況

(a) 出産予定日 昭和四五年二月一三日

(b) 出産日 昭和四四年一二月三日(予定日より七二日早く出産)

(c) 在胎期間 二九週五日

(d) 分娩経過

同年一二月三日午前〇時 陣痛開始

同日午前五時 同病院産婦人科に入院

同日午前九時 陣痛発作三分毎に発来し、子宮口一指挿入可、体温37.5度となり、前期破水、感染症の疑い、早産の診断のもとに、ラクテックG五〇〇CC、シントシノン五単位二A、ブスコバン一Aの点滴静注及びエストリール一Aの筋注を施行。

同日午前九時五〇分 第一前方後頂位にて原告浩二分娩。

(e) 生下時体重 一四四〇グラム

(二) 診療の経過

(1) 出生後同日午前一〇時五分に右病院小児科に入院して未熟児室内の保育器(アトムV五五型)に収容。

(2) 入院中の担当医師 西田桓一郎

(3) 入院時所見

顔面紅潮、四肢チアノーゼあり、呼吸状態不規則、心音整、体動微弱、皮膚は菲薄。

(4) 主な臨床経過

(a) 呼吸状態、栄養補給など

イ 入院当日と翌四日

保育器に収容後、酸素を毎分三リットル投与したが、チアノーゼが消失せず、翌四日も吸気性陥没、四肢チアノーゼ、四肢冷感あり。

ロ 同月五日(生後三日目)

吸気時の胸骨部陥没が認められたほか、午前三時チアノーゼ(+)、午前六時四肢チアノーゼ(+−)、正午足底チアノーゼ(+)、午後三時足底チアノーゼ(+−)の症状あり。飢餓期間が五五時間に達したので、同日の午後二回にわたり五パーセントぶどう糖液三CCを鼻腔注入。注入後異常なし。

ハ 同月六日(生後四日目)

四肢軽度チアノーゼ、四肢冷感あり

ニ 同月八日(生後六日目)

黄疸発現

ホ 同月一四日(生後一二日目)

体動少なく、刺激による反応が弱い。正午、乳汁注入後に嘔吐一回認め、更に、午後六時の哺乳時に溢乳を認めたため注入を一時停止、その後午後九時から再開したが吐乳なし。

ヘ 同月一五日(生後一三日目)から一八日(生後一六日目)まで

体動は依然として少ないが、チアノーゼが次第に軽減して、一八日には消失

ト 同月一九日(生後一七日目)

体動を認め、その後は著変なし。

(b) 体温

一二月二七日(生後二五日目)までは三六度以下を推移したが、以後上昇して三六度を超えるようになり安定した。

(c) 体重

生下時一四四〇グラムあつた体重は、一二月一一日(生後九日目)には一三二六グラムまで減少したが、同月一五日(生後二二日目)以降上昇を示し、同月二五日(生後二二日目)には一四七五グラムと生下時体重を超え、以後順調に増加し退院時(翌四五年二月四日)は三〇七〇グラムであつた。

(d) 酸素管理

イ 投与期間 昭和四四年一二月三日の出産直後から同月二六日(生後二四日目)まで。

ロ 投与量及び濃度(濃度はミラー社製酸素濃度計により測定)

開始時毎分三リットルを投与し、同月一八日(生後一六日目)までこれを維持(この間の濃度は平均35.25パーセントで、同月四日(生後二日目)午前に四二パーセントを記録した以外四〇パーセント以下を維持)、同月一九日(生後一七日目)には体動が活発になつたので投与量を毎分1.5リットルにし、生下時体重を超えた一二月二五日(生後二三日目)に投与量を減少させ、翌二六日(生後二四日目)投与停止(この間の濃度二九パーセントないし三三パーセント)。

(5) 昭和四五年一月二二日(生後五〇日目)哺育器から出し、コットに移床。

(6) その後特に異常所見を認めず同年二月四日退院。

(三) 退院後の経過(眼症状)

(1) 同年三月二〇日、済生会滋賀県病院で乳児検診を受けた際、母親から眼が見えないように思うとの訴えがあり、西田医師が診察用ランプ等で反応をみたところ、反応が鈍い様であつたため、同医師は眼底検査を受けるよう指示した。

(2) 同月二四日、同病院眼科を受診し、岸本医師による眼底検査の結果、視神経乳頭左右とも僅かに境界不鮮明で著明に蒼白、網膜は(右眼)著明に灰白色に混濁、(左眼)軽度に灰白色に混濁が認められたものの、本症に特有な血管の変化がないため、同医師は、網膜の先天性異常で、既に治療の方法がないと診断したが、保険の関係で傷病名を「両眼未熟児眼底」と付した。

(3) 同年四月二一日、同眼科を再受診し、同医師による眼底検査の結果、視神経乳頭両眼とも白色、網膜は(右眼)著明に灰白色に混濁、(左眼)中等度に灰白色に混濁が認められ、同医師の所見は同じであつたが、納得を得るため、京大病院で診察を受けるよう原告初子に伝えた。

なお、右二回にわたる眼底検査において、剥離は認められなかつた。

(4) 同月二三日、京大病院眼科を受診し、宇山医師による眼底検査の結果は次のとおりであつた。

(a) 両眼とも、対光反射があり、前房が非常に浅い。

(b) 右眼

視神経乳頭見えず、血管の異常はなし、乳頭から外方にわたつて大きな皺が寄りその部位では網膜が剥離、乳頭から上方の網膜にも皺状あるいは扁平状の網膜剥離あり。ところどころにコーツ氏病の時にみられるような黄白色に輝く斑紋が見られる。

(c) 左眼

右眼と似たような眼底であるが、その程度は軽度、視神経乳頭が見え異常なし、網膜は乳頭から下方に向つて皺がよつているが、上方についてはきれいで剥離なし。

同医師は、本症の可能性を否定しえないとしたものの、前房が極めて浅いことなどの症状から「両眼網膜異形成症」で、治療法がないと診断した。

(5) 昭和四六年五月一一日、京都市の吉川辰男医師の診察を受け、本症に罹患したとの診断を受けた。

(6) 同年一一月八日、天理よろず病院において菅謙治医師の診察を受け、「両眼未熟児網膜症、両眼に束状網膜剥離があり視力は極めて悪い。」との診断を受けた。

13  原告健一郎

原告健一郎が、昭和五一年一二月一一日、第一日赤病院で出生したところ、在胎週数二六週、生下時体重九一〇グラムの未熟児であつたため、同病院小児科久富医師の指示下に、直ちに同病院未熟児センターの保育器に収容され、以後同医師の管理のもと、酸素投与は、当初毎分四リットル、翌五二年一月二六日からは毎分三リットル、同月三〇日からは毎分二リットル、同年二月一日からは毎分一リットルとされ、同月八日に投与中止が試みられ、同月一二日で中止されたこと、ところで、原告健一郎は、右の間の同五一年一二月二四日を初回とし、府立医大大学院研究科所属・第一日赤病院の眼科医務嘱託になつていた前記赤木医師から二週間に一回眼底検査を受け、翌五二年二月四日にも同検査を受けたこと、更に竹内医師が同月八日と一八日に同検査を実施し、同二三日に冷凍凝固を行うことが予定されたこと、ところが、手術予定日時の段階で、同原告に呼吸停止の症状が発現したため、同日の手術は中止されたこと、その後、同年三月二日に冷凍凝固、同月一八日に光凝固が試みられたけれども、いずれも功を奏さず、同原告は、同月末頃両眼とも失明したことは、関係当事者間に争いがなく、同争いのない事実に、<証拠>及び弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められ、他に右認定を覆すに足る証拠はない。

(一) 出生経過

(1) 母親(原告裕子)の出産歴なし

(2) 母親の妊娠期間中の状況

昭和五一年七月二七日腰痛と性器出血を訴えて第一日赤病院産婦人科を受診し、切迫流産二か月の診断を受けた。しかし、妊娠の継続を希望して、ズフアジラン(血管拡張剤)とEPデポー(黄体卵胞ホルモン剤)の注射を受けたほか、ルトラール(黄体ホルモン剤)ダクチールOB(子宮収縮緩和剤)、トランサミン(止血剤)の投与をも受けた。以後性器出血もなく経過していたが、同年一一月下旬になつて再び性器出血を訴え、同月三〇日前同産婦人科を受診し、ルトラール、ダクチールOB、トランサミンの投与を受けた。次いで、同年一二月六日性器出血が増悪し、腰痛を訴えたため、切迫早産七か月目として入院した。主治医は同院産婦人科医細見哲夫であつた。そして、入院後も少量ながら性器出血が続いていた。

(3) 出産の状況

(a) 出産予定日 昭和五二年三月一九日

(b) 出産日 同五一年一二月一一日(予定日より九八日早く出産)

(c) 在胎期間 二六週

(d) 分娩経過

一二月一〇日午後二時 陣痛発来

同日午後三時 自然破水

同月一一日午前七時三八分 発露

同日午前七時四一分第二後頭位にて分娩

(二) 生下時の状況

(1) 体重 九一〇グラム

(2) 全身状況

全身チアノーゼ強度、心拍数一〇〇以下、新生児仮死(アプガースコア三点)、直ちに心マッサージ、蘇生器使用、午前七時四五分保育器に収容し、酸素四リットルの投与を開始したが、筋緊張なく努力呼吸のみ著明であつた。同日午前八時心拍数一五七に回復したが、呼吸音は聴取できず、呻吟のみ著明全身チアノーゼが続いた。以後保育器内にて酸素四リットルを投与しながら、強度の呼吸障害を伴つた超未熟児として、同日一一時三〇分同院未熟児センターに転送された。

(三) 診療の経過

(1) 入院時の状況

体重は八九〇グラム、体温三四度八分、心音は奔馬調で心拍数一五〇、呼吸音弱く呼吸数六〇、呻吟、陥没呼吸、チアノーゼを認めたので、久富医師は、特発性呼吸窮迫症候群と診断し、直ちに保育器(アトムV75型)に収容し、器内温度を三四度に調節し、呼吸数と心拍数を計る呼吸脈拍メーター二〇二一(三栄測器製)を装着したが、三〇分後低体温(34.8度)が回復しないため、器温を三五度、更に35.5度に上げ、体温を三六度に保つようにした。午後〇時五二分臍静脈より輸液を開始、輸液内容にはぶどう糖液、ビクシリンS(感染予防のための抗生物質)のほか呼吸障害を伴うため、七パーセントメイロン(重炭酸ナトリウム)を添加した。また、酸素は入院当初より使用、酸素投与量を決めるため経皮酸素分圧測定装置五三〇一(スイスロッシェ社製)を使用、経皮的酸素分圧が一〇〇ミリ水銀柱を超えないよう、吸入酸素濃度を決め、以後昭和五一年一二月二八日午前八時まで二時間毎に吸入酸素濃度を測定、記録した。

(2) 主な臨床経過

(a) 同月一二日から同月二四日まで

同月二〇日頃まで陥没呼吸が続き、その間徐脈及び無呼吸発作が頻回に生じた。同月二一日から同月二四日まで胸部陥没が続き、徐脈及び無呼吸発作が相変らず頻回に生じた。

(b) 同月二五日から同五二年一月二一日まで

胸部陥没が続き、徐脈及び無呼吸発作も頻回に生じていたが、徐脈等は次第に鎮静化して行き、体重も一三日に生下時にまで復帰した。

(c) 同月二二日から同年二月八日まで

胸部陥没は依然として続いたが、徐脈等は時に生じても自然回復し、体重が二五日に一〇〇五グラム、一日一一一〇グラム、五日一一六〇グラム、八日一二〇〇グラムと増加し、同八日午後五時に酸素投与を中止しても、酸素分圧が五〇ミリヘクトグラムを維持したため、酸素投与を一旦停止した。

(d) 同月九日から二二日まで

胸部陥没も次第に軽度となり、体重も順調な増加を示した。殊に、一八日にはオルゴールをかけると笑顔を見せた。もつとも、九日午後五時一〇分頃呼吸停止があり、顔面及び全身チアノーゼを来たしたため、心マッサージ、人工呼吸を施行したところ約二分後に啼泣した。そこで、呼吸脈拍メーターを装着し、酸素投与を再開したところ、午後七時五八分刺激回復の徐脈が一回生じた。

(e) 同月二三日

軽度の胸部陥没が持続していたところ、正午頃冷凍凝固施行の準備して顔面清拭のため、栄養注入用カテーテルを抜去した際、ミルク滓が気管に入つたらしく突然呼吸停止を起して、顔面チアノーゼ、全身蒼白となる。胸部刺激、蘇生器使用によつても容易に回復せず、呼吸興奮剤テラプチや強心剤プロタノールの注射により漸く回復したが、一般状態悪く手術侵襲により更に一般状態の悪化が考えられたので、手術を中止したうえ、両親にその旨説明して同月二五日に手術延期した。なお、酸素投与を再開した。

(f) 同月二四日以降

胸部陥没は、その後も暫く続いたが、全身状態は改善し、二四日に酸素投与を中止した。

(g) 同年五月二八日

退院

(四) 眼科での臨床経過

第一日赤病院は、従来本症の患児が出た場合、府立医大病院に転院させて光凝固を受けさせていたのであるが、昭和四九年頃から冷凍凝固による治療を始め、光凝固の治療は原告健一郎が最初であつた。なお、昭和四九年五月からは、同病院未熟児センターに収容された児の眼底検査は、原則的に赤木医師が毎週金曜日に担当し、必要に応じて常勤の医師が事に当るという態勢がとられていた。

(1) 昭和五一年一二月二四日(第一回眼底検査、初診生後一四日目)

小児科久富医師より依頼を受けた眼科赤木医師が暗室においてボン大学式倒像眼底鏡、+20Dレンズ・阪大式未熟児鉤を用いて散瞳下に眼底検査を行なつたところ、相当に強い硝子体の混濁を通じ、辛うじて観察ができた眼底後極部の網膜血管は、後記森実秀子のいうⅡ型圏を出ており、且つ明らかな変化を認めなかつたものの、広範な無血管帯の存在が明らかとなり、二週間後に再検査を行うこととした。なお、観察結果の極く簡単な図示がある。

(2) 昭和五二年一月七日(第二回眼底検査、生後二八日目、担当赤木医師)

前回と同様の条件下で広汎な無血管帯の存在が疑われたが、少なくとも眼底後極部の網膜血管に特に強い異常は認めなかつた。観察結果の図示なし。

(3) 同月二一日(第三回眼底検査、生後四二日目、担当赤木医師)

硝子体混濁は前回に較べて徐々に減少しており、後極部の観察も可能になつたところ、同部の網膜血管に強い異常は認められなかつた。観察結果の図示なし。

(4) 同年二月四日(第四回眼底検査、生後五六日目、担当赤木医師)

硝子体混濁がほぼ消失して、周辺部網膜まで観察可能となつたところ、無血管帯が大変に広いこと、周辺部網膜血管が細く、境界が鮮明であることが指摘された。赤木医師は、カルテ該当欄に「重症です」と記載し、一週間後の検査を指示したのであるが、右記載について、無血管帯の広い点を重視し、将来凝固を要する事態の生ずる可能性を警告する趣旨であつたという。観察結果の図示なし。なお、同医師は、学会等の関係で以後二週間検査ができなくなつた。

(5) 同月八日(第五回眼底検査、生後六〇日目、担当竹内医師)

竹内医師は、眼底所見は前回とほぼ同様で、血管が少し赤道を超えている程度で、広範な無血管帯が全周にあつた状態で、まだ本症は発症してなかつたというのであるが、観察結果を全く記載しておらず、ただカルテ該当欄に「手術が必要だが、全身状態はどうか」という趣旨を記載しているところ、この点につき、生下時体重及び在胎週数から判断して、重度の本症の可能性を危惧した表白であるという。

(6) 同月一八日(第六回眼底検査、生後七〇日目、担当竹内医師)

竹内医師の診療の結果、広汎な無血管帯に加え、明瞭な境界線形成が認められ、本症活動期Ⅲ期に入りかけであるうえ、境界線上において硝子体中への新生血管をも認めたので自然治癒は期待しがたいと判断し、主治医と協議の結果二月二三日に冷凍凝固を施行することに決定した。観察結果の図示なし。

(7) 同月二三日(手術予定日)

前認定のとおり、同日呼吸停止をきたし全身状態悪化のため手術は延期せざるを得なかつた。そして、一旦、同月二五日に手術実施を決定したが、小児科より全身状態から翌週(三月二日以降)に手術を行うことに変更した。

(8) 同月二五日(第七回眼底検査、生後七七日目、担当赤木医師)

両眼の眼底全周に境界線が認められ、境界線から周辺部の全周に硝子体侵入が認められた。その侵入は相当立ちあがつており、また無血管帯が大変広く、後極部の血管の蛇行、怒張も認められた。赤木医師は、この症状から早急に凝固手術が必要と判断し、直ちに眼科副部長の根来医師にその旨伝え、同時に硝子体侵入が強いことから、外側から光を入れる光凝固は無理ではないかと具申した。根来医師も急を要するとして、病勢が特に強い両眼の耳側無血管帯を、取りあえず冷凍凝固した。

(9) 同月二八日(第八回眼底検査、生後八〇日目、担当根来医師)

左眼相当悪く、明日再検査予定、観察結果の記載なし。

(10) 同年三月一日(第九回眼底検査、生後八一日目、担当赤木医師)

右眼については耳側網膜での硝子体中への血管侵入は軽減していたが、鼻側網膜で剥離が確認された。また、左眼については手術効果が殆ど認められず、乳頭も確認できないほど網膜剥離が進み、いわゆる白色瞳孔の一歩手前の状態に見えた。結局のところ、左眼については手術により病勢の進展を阻止することはできず、又、右眼については若干の手術効果は得たものの鼻側網膜の剥離から網膜全剥離へ進行する危険性が考えられた。そこで、赤木医師は、その旨を根来医師に伝え、同医師は、翌日再手術を施行することとした。

(11) 同月二日

根来医師により冷凍凝固術が両眼鼻側に対し施行された。その結果、左眼は失明確定的で、右眼は僅かに視力が残るという見通しであつた。

(12) 同月八日(第一〇回眼底検査再手術後七日目、生後八八日目)

両眼とも網膜剥離の状態であり、硝子体出血のために視神経乳頭も確認不能であつた。検査結果では、手術により網膜症の進展を阻止することはできず、右眼に指の数が判る程度の視力が残るであろうとの診断であつた。

(13) 同月一二日(第一一回眼底検査、生後九二日目)

右眼については、網膜剥離の進行は停止したかのような印象だが、視神経乳頭の確認不能で全体として浮腫状態著明。左眼については、剥離が進行し、硝子体出血が認められた。

(14) 同月一四日(第一二回眼底検査、生後九四日目)

右眼については変化なく、左眼は眼底検査時に眼底からの反射が前回より明るくなり、網膜剥離の減少が想像された。

(15) 同月一七日(第一三回眼底検査、生後九七日目)

翌日光凝固術を施行することとした。

(16) 同月一八日

根来医師により光凝固が両眼に施されたが、凝固斑が出来ないため打ち切られた。

(17) 同月二一日(第一四回眼底検査、生後一〇一日目)

両眼とも網膜全剥離に至つた。

第二本症

一未熟児

未熟児の定義は、いろいろの観点からなされているが、本件事案に即していうと、通常であれば具備すべき生理的機能が未熟なまま胎外生活を余儀なくされ、特別の養護を必要とする児である。なかでも、在胎週数三二週未満で胎外生活を余儀なくされた児が、一般的に保育及び医療の面で特別の配慮を必要とすることは、<証拠>によつて、これを認めることができる。そこで、これらの証拠に基づき、在胎週数三二週未満の未熟児一般の生理的機能、病変及び養護につき考察する。

1  生理的機能と病変

医療側では、生下時体重一〇〇〇グラム未満を超未熟児、同一〇〇〇グラム以上一五〇〇グラム未満を極小未熟児と区別しているところ、これらの未熟児は、全身的な殆どの組織が未熟であつて、もとより生命護持に不可欠な呼吸機能も不全であり、とりわけ肺胞拡張不全(現象的には陥没呼吸)に伴う無呼吸発作、ひいては低酸素症ないし無酸素症とその悪循環により、死の転機をみるとか、脳障害を惹起する危険を多分に蔵している。しかも、未熟児は、出生後に肺機能が一旦低下するが、その度合は、生下時体重一二〇〇グラム以下の児に特に顕著であり、肺機能の改善がみられるのは、生後三ないし四週を経過した頃というのが通常の経過である。そして、死亡率は、昭和四〇年代前半で、超未熟児が九〇パーセント、極小未熟児が五〇パーセント、生後三日以内の死因は、肺硝子膜症と頭蓋内出血(頭部のうつ血と毛細血管の脆弱が原因)が最も多いと指摘されている。もつとも、保育システムの改善、児の管理に関する知識の集積、更には胎児管理の改善等もあつて、超未熟児については昭和五五年前後頃から確実に、また極小未熟児については昭和四〇年代後半から、いずれも死亡率が、かなり顕著な改善傾向を示しており、脳神経症状の後遺症も右に歩調を合せるように減少していることが、多くの臨床報告によつて認められる。それにしても、肺硝子膜症を含む特発性呼吸窮迫症候群と頭蓋内出血が死因に占める割合は依然として大きく、しかもかなりの頻度で死の転機ないし脳障害という深刻な結果が生じていることに、留意する必要がある。

ところで、同じ未熟児であつても、骨盤位分娩(いわゆる逆子)の児は、総体に予後が悪く、酸素投与以外に効果的な治療法のない特発性呼吸窮迫症候群に罹患し易く、頭蓋内出血を生じ易いこと、また、在胎週数の少ない児にも、在胎週数相応の生理的発育を遂げている児と、それすら遂げていない児とがあり、後者の児は、母胎が喘息に罹患するとか、性器出血を生ずるなどしたことにより、母胎に依存する胎児が無酸素症ないし低酸素症に陥るなどによる発育不全を招来している場合で、出生時に仮死を示すことが少なくなく、分娩に異常がないのに重症仮死で生まれた新生児の三分の二がこれに属するのであつて、保育及び医療の面で格段の配慮を必要とする。

なお、観点を変えてアプガーの採点法による点数の低い児(一〇点法で、例えば〇点ないし二点は重症仮死、三点ないし六点は軽症仮死とされている)は、前記特発性呼吸窮迫症候群の発生頻度が高いとされており、また、脳性麻痺との関係で、中心性チアノーゼが生じているのに酸素療法を行わないで放置したり、短期間に酸素投与を中止すると、五七パーセントという高頻度で脳性麻痺が発生するけれども、十分(一一日以上)に酸素療法を行つた場合には全く発症してないとの報告があり、おおよその傾向が看取される。

2  保育

未熟児の病態生理が、未だ明らかにされていないだけに、何等かの疾病罹患後の原因治療は困難を極める。したがつて、その保育に当つても格段の予防的配慮が望まれることは当然であり、その点につき各種の提言がなされている。

(一) 酸素投与

臨床的には、呼吸障害の症状が認められなくても、一般に生後一定の期間、酸素を投与し、順調に肺胞が拡大するのを助けるのが好ましいとするのが基本姿勢である。殊に、超未熟児はもとよりのこと、極小未熟児に呼吸障害が認められる場合には、肺拡張不全を助ける趣旨で、一般状態が改善されるまで酸素投与がなされなければならないし、チアノーゼが発現したり、分娩直後の仮死蘇生術のときは、右以上に多量の酸素投与を必要とする。ただ、本症の発症を危惧する観点から、酸素管理に腐心していることは、後述(五の1)のとおりである。

(二) 保温と保湿

新生児の体温は、生後急速に下降し、三〇分ないし二時間で最低となり、その後上昇して、三六時間ないし四八時間で一応最高となるものの、この時点から生理的体重減少が最大となる時期まで再び体温は下降し、体重が増加し始めると体温も上昇するという推移を辿るのが一般のようであるが、その間の生理的体重減少の時期には、体温に著明な変動が生ずることがある。以上はもとより未熟児にも妥当し、より慎重な保温対策を必要とするところ、昭和四〇年代後期までは、体重別の適当な温度について、必ずしも厳密な数値として定着したものはなかつた。しかし、臨床例に由来すると思われる提言は数多くなされているところ、大別して二つの立場に分別できる。一つは、低温の環境だと酸素消費量が増加して代謝異常が起り、死亡率が高くなるから保温に努めなければならないとする立場であり、他は、過温により新陳代謝を高めるより、低温にして冬眠的生理状態下で保育する方が良いとする立場である。そして、右のいずれもが臨床の場で実践されていた。それによると、おおむね、湿度との兼ね合いで保育器内の温度を一〇〇〇ないし一三〇〇グラム程度の児を想定して、二七ないし三二度とする者、三〇ないし三四度とする者がみられるが、湿度については六〇ないし九〇パーセントの範囲内にほぼ集約されている。もつとも、保育器内温度については、保育技術の進歩に伴い、昭和四七年頃から36.7度での保温に努めるべきであるとする立場からの施療が、次第に優位を占めるに至つているが、同時にやたらに暖めて脱水を助長しないようにすべきであると警告されており、また急激な体温の動揺が禁忌であることはいうまでもないところである。

(三) 栄養

未熟児に対する水分及び栄養の補給が重要であることはいうまでもないが、授乳開始の時期について、大別して、生後八時間ないし一〇時間とする早期授乳を可とする説と二四時間以上を経過してからとする晩期授乳を可とする説がみられる。そのうち、早期授乳の利点として挙げられているのは、高ビリルビン血症、低血糖症の予防などに寄与するということである。他方、晩期授乳を可とする理由は、未熟児の器官が未発達で、吸引、嚥下などの反射運動が不完全であり、消化吸収力も弱いこと、授乳により呼吸障害が生じ、疲労させること、過剰栄養は栄養不足よりはるかに有害で、死亡率を高めること、などであり、これらの観点から出生後の二、三週間は生命の保持を主眼とし、栄養は生命を維持する最小限度にとどめるべきであるとするのであり、これと体重を考慮しながら補給の時期を決めるというのが大勢であつたが、昭和四八年頃以降、早期授乳を可とする説が次第に定着して来た。そして、水分補給についても、吸引力、嚥下力があれば、ある程度の飢餓期間を置いて与えるべきであるとする。

以上、いずれにしても、これらの提言が児に対する臨床所見に応じた水分及び栄養の各補給を否定するものでないことは、いうまでもないところであろう。

(四) その他

未熟児に加える処置操作は、できる限り無駄を省いて安静を保つ必要がある(最小操作の原則)が、一定の期間で体位を変え、両肺の均等な発育を図ると共に肺うつを防止することに努めなければならない。なお、頭位については、低位説と高位説があるやに見受けられるが、低位説というのは出生直後の数時間、気道内の粘液その他を吐き出し易くすることを意図した姿勢であるから、格別対立する説というほどのことはない。

ところで、未熟児の生理的状態は、個別性が特に強いうえ、交互感染も考えられる関係上、個別看護が原則であり、原告らも指摘するとおり、同一保育器に複数児を収容することは避けるべく、これが原則的な扱いである。

以上の認定に反する原告らの全身管理に関する所論(但し、酸素管理については後述)は、いずれも採用できない。しかして、以上1、2の説示を総合すると、超未熟児はもとより極小未熟児も、極めて不安定な生理的状況にあり、殊に出生後呼吸が安定するまでの相当な期間内は、死ないし脳障害という取り返しのつかない危険と紙一重の関係にあるといつて過言でなく、これが防止に努める医師が一定の臨床症状に基づいて慎重を期し、十分な対応に意を用いるのは、当然のことというべきである。しかも、未熟児の臨床症状は、極めて個別的且つ多様であるし、同一の児にあつても、時の経過による微妙な変化が予想されるだけに、一義的に律することのできないことはいうまでもなく、したがつてそれを対象とする保育に関する一般論を楯に、医師の具体的な処置を批判することには、慎重でなければならない。

二病像等

後述のとおり、本症発症の原因ないし機序は、未だ解明されていない。したがつて、病態も総てが明らかになつている訳ではない。ただ、本症に酸素誘導型と目されるものと、酸素と無関係に発症し、どちらかというと重症的傾向を示すものがあることは、後述のとおり明らかにされている。そのうち比較的に解明されている前者の病態を中心として、以下考察する。

<証拠>を総合すると、原則的には次の如くに把握できる。

1  病像

本症は、未熟な網膜を基盤として、その発育途上の血管に起る非特異性、非炎症性の増殖性病変に始まり、最悪の場合には網膜剥離により失明を招来する眼疾である。もつとも、殆ど大部分は自然寛解し、極く一部が出血、瘢痕化という変化を経て、前叙のように最悪の場合に全周にわたる網膜剥離により失明に至るというのが、現段階における最大公約数的な病態の把握であろうが、その経過は、おおよそ、次のとおりである。

胎生四か月までは網膜に血管がないのであるが、通常の経過を辿つて胎生四か月に入ると、乳頭において、硝子体動脈より発生した間葉細胞性の前衛が網膜内層に侵入し、内皮細胞性血管が毛細血管となり、その新生血管が鋸歯状縁に向つて伸びて行き、胎生八か月になると網膜鼻側血管は鋸歯状縁に達するが、耳側血管がそこに達して成長を遂げたといえるには、九か月ないし一〇か月を要する。しかし、現実には血管の未熟性に個体差が甚しく、成熟児においても未だ血管が鋸歯状縁に達していないこともあることに留意する必要がある。この点、ヘイジ・メデイア、血管狭細、網膜周辺部の蒼白などが、全身所見との関連において、眼球の未熟性を示す臨床徴候として重視される。したがつて、未熟児の場合には、少なくとも網膜の耳側血管は、胎外で新生ないし成育が行われることになるし、鼻側血管の成育も胎外で行われることがある。なお、昭和六一年八月に発表された植村恭夫の報告によると、同人らが在胎三二週以前、生下時体重一六〇〇グラム以下の児の眼球につき、病理組織学的検索を行つた結果では、耳側は全例未熟性を示し、鼻側は二八週以前で三三パーセント、生下時体重一三〇〇グラム以下では六〇パーセントが未熟性を示したこと、そして、同人は、この数値を後記本症Ⅱ型が生下時体重一三〇〇グラム以下に発症しやすいという臨床的研究に関係ある基礎資料と位置づけていることに注目する必要がある。

そこで、酸素誘導型と目される本症の病像であるが、まず原発性変化は、直接的な機序の解明がなされていないけれども、要するに網膜内の毛細血管が壊死に陥るということである。しかし、この初発症状は、検眼鏡的に確認することが極めて困難なもののようであるが、いずれにしても右の結果、該血管末梢部に相対的な酸素欠乏状態(同時に栄養不良状態)が生じ、その生理的な反動として、低(無)酸素状態の部位の網膜とそうでない部位との境界にある網膜血管の閉塞部位に原発する発芽性の異常な血管増殖が起り(血管増殖をもたらす因子も、厳密には解明されていない。)、これに線維性組織の形成が伴うところ、この増殖は、正常な過程である周辺の無血管帯領域に伸びず、硝子体腔に向つて発達するところ、これに続く臨床経過については、項を改め、従来からなされている分類を利用して明らかにする。

2  臨床経過とその分類

我が国の研究者の間では、従来から一九五五年(昭和三〇年)発表のオーエンスの臨床経過の分類が多く利用されて来たが、その後、検眼用具等の発達・普及に伴い、眼底病変につきかなりの精度の安定した情報が得られるようになつて、右の分類では、実際の臨床経過と必ずしも合致せず、不都合であることが明らかになつて来たため、永田誠(昭和四五年一一月)、植村恭夫(昭和四八年九月二三日)、馬嶋昭生(昭和四九年九月)らが、それぞれ独自の分類を作成し、それに基づいて治療適期等を論ずるに至つた。その結果、眼底所見の判定に主観が入り、診断基準の混乱を生じたこと、さらに、昭和四〇年代後半頃から、従来の分類に当はまらず、急速な経過を辿つて網膜剥離に至る型の存在も明らかになつたことなどから、それまでの研究成果を整理して、本症の臨床経過を再検討し、今後の研究に寄与させることを目的として、四九年度研究班が発足し、昭和五〇年三月に同班による報告が提出された。そこで、オーエンスの活動期の分類と四九年度研究班報告の分類による各臨床経過を掲げると、次のとおりである。

(一) オーエンスの分類

(1) Ⅰ期(血管期)

網膜血管の迂曲怒張、周辺部網膜浮腫、血管新生

(2) Ⅱ期(網膜期)

周辺網膜に灰色隆起、出血、硝子体中への新生血管を伴う組織増殖

(3) Ⅲ期(初期増殖期)

周辺網膜の限局性剥離

(4) Ⅳ期(中等度増殖期)

中等度の新生組織

(5) Ⅴ期(高度増殖期)

高度の新生組織、全網膜剥離

(二) 四九年度研究班報告の分類

(1) 活動期

(a) Ⅰ型

主として、耳側周辺に増殖性変化を起し、比較的緩慢な段階的経過をとるもので、自然治癒傾向が強い型である。

イ Ⅰ期(血管新生期)

網膜周辺、ことに耳側周辺部に血管新生が出現し、それより周辺部は無血管領域で蒼白にみえる。後極部には変化がないが、軽度の血管の迂曲怒張を認める。

ロ Ⅱ期(境界線形成期)

網膜周辺、ことに耳側周辺部に血管新生領域とそれより周辺の無血管帯領域の境界部に境界線が明瞭に認められる。後極部には、血管の迂曲怒張を認める。

ハ Ⅲ期(硝子体内滲出と増殖期)

硝子体内への滲出と血管及びその支持組織の増殖とが検眼鏡的に認められる時期であり、後極部にも血管の迂曲怒張を認める。また、硝子体出血を認めることもある。

ニ Ⅳ期(網膜剥離期)

明らかな牽引性網膜剥離の認められるものを網膜剥離期とし、耳側の限局性剥離から全剥離まで範囲にかかわらず明らかな牽引剥離はこの期に含まれる。

以上のうち、Ⅱ期までに進行を停止して、自然寛解した場合には視力に影響を及ぼすような不可逆性変化を残すことはない。Ⅲ期においても自然寛解は起こり、牽引乳頭に至らず治癒するものが多い。

(b) Ⅱ型

主として超未熟児の未熟性の強い眼に起り、初発症状は、血管新生が後極寄りに、耳側のみならず鼻側にも出現し、それより周辺部の無血管帯が広いものであるが、ヘイジ・メデイアのために無血管帯が不明瞭なことも多い。後極部の血管の迂曲怒張も初期よりみられる。Ⅰ型と異なり、段階的経過をとることが少なく、強い滲出傾向を伴い比較的早い経過で網膜剥離を起すことが多く、自然治癒傾向の少ない予後不良の型である。

(c) 混合型

右の分類のほかに、極めて少数であるが、Ⅰ型、Ⅱ型の中間に位置する型がある。

(2) 瘢痕期

(a) Ⅰ度

眼底後極部には著変がなく、周辺部に軽度の瘢痕性変化のみられるもので、視力は正常のものが大部分である。

(b) Ⅱ度

牽引乳頭を示すもので、網膜血管の耳側への牽引、黄斑部外方偏位、色素沈着、周辺部の不透明な白色組織塊などの所見を示す。黄斑部に病変が及んでいる場合には種々の視力障害を示すが、日常生活は視力を利用して行うことが可能である。

(c) Ⅲ度

網膜襞形成を示すもので、鎌状剥離に類似し、隆起した網膜と器質化した硝子体膜が癒合し、これが血管にとりかこまれ、襞を形成して、周辺に向つて走り、周辺部の白色組織塊につながる。視力は0.1以下で、弱視または盲教育の対象となる。

(d) Ⅳ度

水晶体後部にも白色の組織塊として瞳孔領よりみられるもので、視力障害は最も高度であり、盲教育の対象となる。

(3) Ⅱ型の補正

右のとおり本症Ⅱ型については、その臨床経過や診断基準が必ずしも明確でなかつたところ、昭和五一年一月、森実秀子(国立小児病院眼科)が、Ⅱ型の初期像と臨床経過に関する論文を発表した。それによると、Ⅱ型の診断は、次の(a)ないし(c)の三要素が揃つた場合に確定しうるが、これだけの症状が揃う時期は本症が相当進行した段階であり、これ以降の進行増悪は極めて急激な経過をとるというのである。

(a) 血管の迂曲怒張

網膜動脈が後極部はもとより四象眼すべての方向に向い迂曲し、さらに静脈の怒張も加わる。

(b) 吻合形成

血管帯と無血管帯との境界部に新生血管が叢状をなし、吻合形成が多数認められ、所々に出血斑も存在する。

(c) 血管帯の位置が特殊な圏に存在する

特殊な圏とは、耳側は黄斑部外輪予定部付近、鼻側は視神経乳頭から二ないし三乳頭経の範囲に(a)、(b)を含めた血管帯が一周して存在するもので、この圏をⅡ型圏という。

そして、その後、森実秀子の右Ⅱ型の定義は植村恭夫らの研究者にも採用された。

三本症の原因

<証拠>を総合すると、次の事実を認めることができる。

本症の原因の全貌は、未だ解明されていない。しかし、研究者の数は、それほど多くないが、多彩な臨床報告の蓄積を通じて、本症は、種々の原因による症候群とする程度の把握が可能となつた段階といえよう。ただ、その中にあつて、本症に、酸素誘導型と目されるものと、酸素と無関係に発症するものがあること、そして、後者は、どちらかというと重症的傾向を示すことが明らかになつた。そのうち、酸素誘導型と目されるものは、未熟児自体の未熟性、殊に網膜ないし網膜血管の未熟性がベースになつていることは、まず間違いないとされている。この点を現象面からみると、本症の発症頻度は、在胎三二週以前、一五〇〇グラム以下の低体重児ほど高率であるところ(例えば、馬嶋昭生は、昭和四九年に掲載した論文中で、行き届いた管理下でも、一〇〇〇グラム以下で必発、一五〇〇グラム以下で七〇パーセントと臨床報告をしている。もつとも、症例の絶対数が少ないのであるから、傾向性の観察数値と考えるべきであろう。)、かかる児は、全身的な未熟性を示す、反復する無呼吸発作、呼吸窮迫症候群、チアノーゼを伴うし、眼球についても、ヘイジ・メデイア、血管狭細、網膜周辺部の蒼白などの未熟性の徴表所見がみられるのであり、しかも注意深い酸素療法にもかかわらず、本症の発症をみ、かつ活動期Ⅲ期以上まで進行することが多いのである。しかも、この未熟な網膜の発育段階に、各種の因子が作用し、本症の発症をみると想定されているところ、その中で最も注目された因子は、沿革的な理由もあろうが酸素(厳密には酸素分圧)であつた。しかしながら、酸素がその誘導型と解される本症の発症にいかに関与するかの点については、未だ仮説以上のものは存在しないばかりか、網膜の未熟性が素因としてますます重視される傾向にあるといつてよいであろう。さらに、本症は、発症しても大部分が自然寛解し、極く一部が悪化するところ、何故にこのように両極に分岐するのかが明らかでない。しかし、右のうち、学問的には悪化の要因こそ、最も解明を迫られる問題ではなかろうか。

なお、酸素投与なしに発症するものについて述べられている仮説を例示すると、出生して室内の空気を呼吸すると、胎内で母体から補給を受けていた頃に較べ、酸素分圧が約二倍となるので、網膜血管の未熟度が高ければ発生するというのである。

以上の次第であるから、原告らが酸素の過剰投与だけを本症の原因であるかのように強調するのは、必ずしも当を得たものといい難い。

そこで、右の知見に達するまでの原因究明の経過の概略について、本項掲記の証拠に基づき、項を改めて考察する。

四本症の原因究明の経過

1  欧米

一九四二年(昭和一七年)テリーが未熟児の先天性疾患と指摘した、いわゆる水晶体後部線維増殖症は、一九四九年(昭和二四年)になつてオーエンスらにより、後天性の網膜血管の病変であることが確認され、爾来、その原因究明が進められた結果、一九五一年(昭和二六年)にオーストラリアのキャンベルにより酸素原因説が発表されたのを契機として、パッツ、クロス、キンゼイらのその後の調査、研究により本症の発症に酸素がかかわつていることが、疫学的、臨床的に明らかにされた。

即ち、一九五二年(昭和二七年)から一九五七年(昭和三二年)にかけ、アメリカのパッツが、本症の最も重要な原因は、網膜血管の未熟性と高濃度酸素にあるとする一連の論文を発表し、そのなかで、未熟児に投与する環境酸素濃度を四〇パーセント以下、短時間に制限すれば本症は激減する旨の新しい知見を報告し、また、アメリカのキンゼイは、一九五六年(昭和三一年)、大規模な実験調査に基づき、高濃度酸素の投与期間の長いことが本症の誘因であること、酸素投与の中止の緩急によつて、本症発症率に差は生じないこと、環境酸素濃度四〇パーセント以下でも本症が発生した事例があること等を発表した(なお、動物実験によつても、ジレストン〔一九五二年〕らにより酸素と網膜病変と関係が確認された。)。これらの見解は、本症を高濃度酸素投与による医原性の疾患とするものであつたところ、右の提言が適中したかのように、酸素投与の抑制により、少なくとも数のうえで本症の発症は激減した。

しかし、一九六〇年(昭和三五年)アヴェリィとオッペンハイマーの調査等により、酸素投与を制限することで本症の発症は少なくなるものの、逆に、特発性呼吸窮迫症候群等により死亡又は脳性麻痺に罹患する率が増加していることが明らかにされ、その結果、一率的な酸素濃度制限に対する反省期に入り、未熟児に対する酸素投与の問題は、いわゆる「脳か死か」、「生か死か」の二律背反の問題に直面して、救命を第一義とする見地から、高濃度の酸素投与もやむをえないとするに至つた。

ところで、そのうち、採取した血液をガス分析する方法により、酸素分圧(動脈血中の酸素濃度)の測定が可能となつて本症の原因究明が進み、本症の発症と直接関係するのは環境酸素ではなく、酸素分圧であると解されるようになつた。

もつとも、臨床的な研究が進むにつれて、酸素の使用を厳格に制限し、更には酸素を全く使用しない児にも、本症の発症がみられることが判明し、本症の発症に対する酸素のもつ意義が次第に問い直されることとなつた。

以上の本症と酸素との関係が注目されてゆく過程で、本症の発症機序に対する見解の相違から、二つの根強い見解が並存した。一つは、網膜の無酸素症、低酸素症によつて本症が発症するという説であり、高濃度の酸素環境から急に空気環境に戻したために、相対的網膜低酸素症を起し、本症が発症するという考え方もこれに含まれる。そして、この説は、本症が発症した場合には、再び酸素補給を行なうのがよいという考え方や、酸素環境から空気環境に戻すときは徐々に濃度を下げてゆくことが重要であるとする考え方に繋がるものである。他の説は、未熟児を高濃度の酸素中にいれておく期間の長短が本症の発症の最も重要な要因であるとし、酸素環境から空気環境へ戻す方法は関係がないとするものであつた。

2  我が国

昭和二四年頃以降、我が国においても、本症に関する論文等がみられるようになり、アメリカ等における本症の研究例(本症の原因に関する諸説、オーエンスによる本症の臨床経過の分類、酸素制限の必要性等)の紹介がなされたものの、我が国では閉鎖式保育器の普及が遅れ、性能も悪かつたこと等から、酸素の大量投与などということはありえず、したがつて、本症は既に過去の疾患であるとの考えも強く、また、本症に対する関心も薄かつたため、ごく一部の研究者が散発的に論文を発表するという状態であつた。

ところが、昭和三九年以降、現在本症に関する権威の一人であるとされている植村恭夫が、従来過去のものと考えられていた本症が依然として我が国においても稀なものではないこと、酸素管理のモニターとしての眼科管理(定期的眼底検査の実施)を徹底する必要があることなどを強調する一連の啓蒙論文を発表したのを契機として、他の研究者によるステロイドによる治療結果が報告されたり、酸素投与のあり方に関する論文が発表されたりするようになり、更には、後記のとおり、永田誠が本症の治療法として光凝固の報告をしたことも刺戟となつて、次第に、本症に対する眼科、小児科等の研究者の関心が高まり、昭和四三年頃から本症などを境界領域の問題として、徐々にではあるが眼科医と小児科医等関連各科の連繋の途が拓けて行き、且つ小児眼科の重要性も認識されて、これが分化の機運を譲成するに至つた。しかし、それらが臨床の場で実現するには、高価な検査器具の入手が先行するし、それを扱う医師の確保とその養成も容易なことではなかつた。したがつて、前記欧米における研究の成果を反映しながら、極く一部の研究機関による臨床報告が次第に集積されて、病像の多様性が鮮明となり、冒頭説示の知見に達したといえよう。

五予防法

本症によつて僅少にもせよ、患児の失明ないし重度の視力障害を招来することがあるところ、未だ抜本的な治療法が開発されていないだけに、これまで予防措置に意が注がれ、本症の予防につき数々の提言がなされて来た。しかし、未だ本症の発症原因の全貌が解明されていない段階であり、未熟児を作らない以外に予防法はないといわれておるほどであつて、結論として、臨床医学の実践における一般的医療水準に達したと評される程の予防法は、確立していないというほかないが、<証拠>に基づき、被告らの発症責任の有無を判断するに必要と思われる限度で、予防法について検討する。

1  酸素管理

未熟児にとつて、酸素投与が重要な意義をもつことは、前叙のとおりであるけれども、その酸素が如何に関与しているかは不明ながらも、本症の発症に関与しているとみるべきは定説といつてよい。それだけに、未熟児の救命及び脳障害防止などのための酸素投与と、本症の発症を防止するための同投与制限のガイドラインの模索が始まつたのは、当然の成行きであつた。

(一) 酸素管理の変遷

(1) アメリカ

アメリカでは、当初は殆ど無制限に未熟児に対する酸素投与が行われ、一九四〇年代後半から一九五〇年代前半にかけての本症の大量発生をみたが、その後、その原因と対策が追求され、酸素投与の制限により本症の発生は防止しうるとの考えが一般化し、一九五五年(昭和三〇年)には、アメリカ眼耳鼻科学会のシンポジウムにおいて、未熟児に対する酸素のルーティンな投与を中止する、児にチアノーゼ又は呼吸障害の兆候がみられるときにだけ酸素を使用する、呼吸障害等がみられなくなつたら、直ちに酸素投与を中止するとの勧告が出された。その結果、厳格な酸素投与の制限が行われるようになり、本症の発生が劇的な減少をみた。そして、本症の報告は、文献からも姿を消し、過去の疾患と考えられるようになつた。

ところが、前記のとおり、アヴェリィ、オッペンハイマーによる死亡率等に関する報告が出されるに及び、呼吸障害等を伴う未熟児に対しては、救命を第一義に考え、高濃度の酸素投与もやむをえないとするに至つた。加えて、人工呼吸装置の開発と相い俟ち、極小未熟児の生存率の向上に伴い、本症に罹患する児が増加した。

そのうち、前述のとおり酸素分圧の測定が可能となつて、本症の発症と直接関係するのは、環境酸素ではなく、酸素分圧であると解されるに至り、一九七一年(昭和四六年)にアメリカの小児科学会胎児新生児委員会は、酸素療法に関し、本症の発症と関連があるのは酸素分圧であること、同分圧が正常値六〇ミリヘクトグラムないし一〇〇ミリヘクトグラムを超えると、本症発生の危険が高くなるから、八〇ミリヘクトグラムに維持すべきであること、新生児にとつて安全な酸素分圧の上限と安全な投与期間はまだ判つていないこと、吸入する酸素濃度が四〇パーセントでも(以前は安全と考えられていたが)、新生児によつては危険な場合もあり得ること、他方、たとえ吸入する酸素濃度が四〇パーセントでも、心肺機能の障害された新生児にとつては、酸素分圧を正常値まで上昇させるには不十分なことがあり、このような場合は、吸入する酸素濃度が六〇パーセント、八〇パーセントあるいはそれ以上必要になつてくるものの、臨床的に必要な酸素濃度を判断することは困難であることなどの前置をしたうえ、在胎三四週以前に出生した新生児、あるいは二〇〇〇グラム以下の新生児で、……長期にわたり四〇パーセント以上の高濃度の酸素を投与しなければならない場合は、できれば病院で、しかもそこでは血液ガス測定値に基づいて吸入する酸素の調節ができるような病院で治療すべきであること、(ただし、設備や移送方法に問題があり、移送が不可能なこともあるので、今後この勧告が実現されるように関係者が努力することを希望すると付言)酸素濃度を調節などする器具・装置は、正しく機能しないことがあるから、同濃度は少くとも二時間ごとに測定しなければならないし、測度計は一日一回空気及び一〇〇パーセント酸素を用いてチェックしなければならないこと、投与する酸素は空気と混合し、温めて加湿したものでなければならないなどの勧告をした。しかし、なお本症に関する酸素分圧の安全値につき、明確な定説は形成されていない。

右の間にあつて、ウォーリとガードナは、チアノーゼが消失するまで酸素濃度を高め、それから徐々に酸素濃度を下げて、軽くチアノーゼが発現するときの酸素濃度を調べ、その濃度を四分の一だけ高い濃度に維持するいわゆるウォーリー・アンド・ガードナー法を提唱した。

(2) 我が国

我が国において閉鎖式の保育器による未熟児の保育が行われるようになつたのは、昭和三〇年代に至つて、人的にも物的にも恵まれた極く少数の施設においてであり、しかも、当初から酸素投与は制限的になされるべきであるとのアメリカ等における考え方が導入されていたので、本症の大量発生を経験しなかつた。そのため、我が国では、本症が高濃度酸素による保育に特有な過去の疾患と観念的に理解されて関心も薄く、少なくとも昭和三〇年代以降、酸素の過剰投与(例えば、濃度六〇パーセント)を長く続け、突然に酸素濃度の低い環境に取り出されたことが本症発生の原因であるとの見地から、環境酸素濃度を三〇パーセント以下、多くとも四〇パーセント以下に制限して最小限度の投与に止め、酸素投与の停止は、本症の発症を避けるため、漸減する(例えば、二日ないし三日に亘つて徐々に)という投与基準さえ守つておれば、本症の発症はないとの見解が定説になつていた。

しかしながら、我が国においても、未熟児の医療保育が進歩し、多量の酸素投与を余儀なくされる極小未熟児の生存率も高まり、勢い本症の発症率も増加傾向を示すに至つた。この傾向に逸速く気付いた植村恭夫が、昭和三九年から同四二年にかけて、その論文中で本症は我が国においても稀ではないと警告し、その当時の本症と酸素との関係についての外国における見解、例えば、極小未熟児を想定して、投与する酸素濃度を四〇パーセント以下に止め、投与を中止する際には徐々に減じてゆき、中止後に発症した場合は、再び酸素を投与すべきであるとか、ステロイドが本症に効くなどと紹介したため、昭和四〇年代初め頃から次第に酸素療法に関心が深まり、これに関する研究・論説も増加して行つた。それは、一方で、従前の画一的な環境酸素濃度の四〇パーセント制限説に対する反省から、未熟児にチアノーゼが発現したり、分娩直後の仮死蘇生術のときには、四〇パーセント以上の濃度の投与であつても、差し支えないとするものであり、他方で、従来安全だとされてきた四〇パーセント以下の酸素投与によつても本症が発症したとか、酸素投与と無関係に本症が発症した事例が多数報告されるというものであつた。

そのうち、我が国においても、本症の予防のため酸素分圧の測定による酸素管理の必要性が唱えられるようになり、一部病院で酸素分圧のモニターが試みられだした。しかし、昭和四五年当時、酸素分圧の上限に対する考え方は、六五ミリヘクトグラムから一六〇ミリヘクトグラムと多様であつたが、昭和四七年に、奥山和男(小児科)らの論文で、前記アメリカ小児科学会新生児委員会の酸素治療に関する勧告が紹介され、酸素分圧によるモニターが高い評価を受けた。ただ、この方法は、非常に高価な器械と高度な技術が必要であるうえ、常時モニターしなければならないところ、動脈血の反復採取が未熟児に対する侵襲及び感染の危険を蔵するため、その経時的測定は、一部の医療機関で試みられたに止まつた。次いで、昭和五〇年には、山内逸郎(小児科)が、持続的に動脈血酸素分圧を測定することができる方法として、皮膚に電極を設定してこれを測定する経皮的酸素分圧測定法を紹介し、そのなかで、この方法により継続的に酸素分圧を測定した結果、酸素分圧は極く短時間のうちに大きく変動を繰り返すことを明らかにし、前記の血液採取による方法では、その変化を把握できず、検査効果の乏しいことが判明した。しかし、最近でも、本症と酸素との関係には未解明な問題が多く、経皮的酸素分圧測定装置の普及も十分でない。

2  眼底検査

本症の予防法としての眼底検査は、酸素管理のモニターとして位置づけられるもので、本症の原発性の変化である網膜血管径の広狭(収〔攣〕縮)を眼底検査で監視し、それが認められると投与酸素濃度を下げるとか、中止することにより酸素管理をしようとする方法で、一九六七年(昭和四二年)パッツにより提案された。眼底検査は、酸素管理の手段としては手軽な部類に属するが、本症の発症の危険が予測される生下時体重一五〇〇グラム以下の児を中心としていうなら、他律的に児の非常に小さい眼を開き、眼球を固定(そのためには身体固定が不可欠)して眼底を観察すること自体に困難が伴うところ、それでなくとも呼吸障害や心停止を起しかねず、最小操作が原則であるのに、全身麻酔を含めて、右の如き負荷をかけることにより、危険を助長することになりかねないため、全身管理を重視する小児科医の対応は、一般に消極的であつた。しかも、児の眼底は、ヘイジ・メデイアによつてかなり長期に亘り満足に検査できないという制約があるうえ、検査が可能な場合でも、本症初期の多彩な病像の把握は、習熟した眼科医でないと困難であつたところ、それが可能な極く小数の眼科医にとつても、児の網膜血管径が狭細のため所見の判定自体が極めて信頼性に乏しく、加えて酸素分圧との相関も認められないことから実用価値がないとされた。

もつとも、眼底検査は、光凝固ないし冷凍凝固を本症の治療法として、追試ないし容認する側から、凝固治療の要否及び同治療の適期を判別する手段として、必要性が唱えられた。しかし、暫くの間は、一部研究者とその周辺の医師により実施されただけで、眼底検査に予防的及び治療的効果を認めない多くの医師は、児の全身状態に負担をかけるだけとして、その実施を見送つた。それでも、研究者らは、経験の積みかさねにより、本症のおおよその発症時期と進行状況を把握し、且つ器具の開発・改善を経て、昭和四七、八年頃になると、生後約三週間の経過を一応の目安とし、全身状態が落着いた段階で、散瞳や全身麻酔(但し、要否につき見解が岐れる。)などを含めて安定した手順により眼底検査を行うに至つた。なお、同研究者らの経験によれば、病勢により光凝固の要否を判定するところ、その病勢なるものは、同一人による継続的な観察によらなければ、感得できないといい、四九年度研究班報告も同一検者による規則的な経過観察の必要を説いている。

3  以上のとおり、本症の予防法として環境酸素濃度や酸素分圧の測定又は眼底検査をモニターとして酸素の投与量を調節するという方法は、有効または現実的な方法と評価されず、少なくとも昭和五二年当時までについていえば、一般の保育担当医師が酸素投与をなすに際しては、ウォーリー・アンド・ガードナー法に準じてチアノーゼの有無等の未熟児の状態や酸素濃度等の測定値を目安にして、必要な場合以外は酸素投与をしないようにし、酸素投与をする場合でもなるべく投与量を少なく、投与期間を短くするという方法が用いられていた。しかし、ウォーリー・アンド・ガードナー法は、その指標とするチアノーゼと酸素分圧との間に、必ずしも相関関係がないため、精密な酸素管理の方法といえない。なお、超未熟児については、いかに厳格に酸素投与を調節しても、本症の発症を防止できないというのが、大方の一致した認識である。

以上によれば、本症については、その発症原因が解明されておらず、殊に本件に即していえば、酸素誘導型と目される本症の場合に、酸素が如何に係つて発症するのかも明らかでない。したがつて、その予防法としての酸素管理、それを助長する手段としての全身管理につき、明確な尺度は形成されていないというほかない。

原告らの酸素管理に関する一般論の主張も、やや一面的との評価を免れないというべきである。

しかして、前述のとおり未熟児保育の臨床は、極めて個別的且つ多彩であつて、医師の時宜を得た裁量による対応に俟たなければならない領域が広いうえ、救命及び脳障害の防止を第一義とする処置が要請されることからしても、本症の予防法等に関する一般論の妥当範囲には、限界があるというべきである。

六治療法

本症には、発症原因の側面からの分類として、酸素誘導型と目されるものと、酸素と無関係に発症し重症的傾向を示すもののあること、そのいずれについても発症の原因が解明されていないことは、既に触れたところである。それだけに、治療法についても、各種の提言がなされている段階に止まつているといつてよいであろう。

<証拠>を総合すると、以下の事実を認めることができる。

1  薬物治療

(一) ビタミンE

歴史的には、本症に対し最初に試みられた治療法であるが、多くの追試により一旦はその効果が否定された。しかし、最近になつて、本症の原因物質ではないかとされている過酸化脂質を減らす効力を有することが明らかにされてから、客観的な薬効の検定を目的とする二重盲検法により、本症の発症予防に有効という報告がなされて、再び注目を浴びるに至つたものの、コントロールスタディが続けられている段階である。

(二) 副腎皮質ホルモン

滲出抑制を意図する副腎皮質ホルモンの投与による治療法には、副腎皮質刺激ホルモンを投与する方法と、副腎皮質ホルモン(プレドニン、リンデロン等)を直接投与する方法があり、前者は難治性の炎症に試用されていたところ、本症の眼底病変が急性炎症の際の血管増殖像に類似しているとの発想に基づき、他に方法がないまま試用されたのであつた。薬効の点であるが、初期病変に効果があるといわれたが、自然治癒との区別が不明で、確実な効果判定ができず、また、大きな副作用をもたらすところから、現在では概ね否定的見解が支配的である。ちなみに、この療法は、四九年度研究班報告でも「全身的な面に及ぼす影響をも含めて否定的意見が大多数であつた。」とされている。ただ、光凝固による過剰の侵襲を防ぐための投与は、行われているようである。

(三) その他の薬剤

蛋白同化ホルモン、ATP、止血剤などが試用されたこともあつたが、その効果は一般に否定されている。

2  逆酸素療法

本症の発症が酸素投与を中止した後であることに着目し、網膜の相対的な無(低)酸素状態を本症の機序と把握し、本症が発症した場合には高濃度の酸素環境に戻すことにより改善可能とする見地から、一旦保育器から出して本症が発症した場合、再び酸素を投与して酸素分圧を上昇させ、同時に脈絡膜から網膜の無血管帯への酸素の供給により酸素欠乏状態を軽減して、本症を寛解に導こうというものである。

本療法は、酸素療法の一環として、少なくとも昭和四二年頃から同四六年頃にかけて広く実施されたが、「再び網膜血管に障害を与えることなく、しかも有効な酸素の濃度、投与期間の決定は不可能である」とされ、現在では余り行われていない。

3  光凝固法

(一) 光凝固

光凝固装置は、日蝕観察のあとに黄斑部障害を生じた患者の所見が、あたかも弱いジアテルミー凝固(短波療法の際に生体を加熱して生ずる凝固)の瘢痕に似ていることから、光の焦点を結んだ部分だけを焼くという特性を生かし、それによる網膜凝固の可能性が考え出されたことに始まり、成人の糖尿病性網膜症及びその前段階の諸変化に対する治療法として西ドイツで開発され、眼疾につき応用範囲拡大の可能性を秘め、我が国でも昭和三五年頃からそれらに対する追試報告が次第に多くみられるようになつたものの、その適応基準や使用方法に関する情報も不十分で、試行錯誤をかさねるうち、同四八年当時になると一〇〇台に近い同装置が輸入され、最近では日常眼科治療に欠くことができないとまで評価されるに至つた。しかし、糖尿病性網膜症の治療としての光凝固は、主として成熟した網膜に生ずる血管増殖性病変を凝固破壊することにより、失明に至るまでの期間を延長することにあるほか、増殖病巣の周辺網膜を凝固することにより、脈絡膜との間に癒着を生じさせ、網膜剥離を防止する意義も付加されておるところ、米国においてこれの有効性が承認されたのは、コントロールスタデイを経た後の昭和五〇年代に入つてからであつた。

右の間の昭和四二年秋の日本臨床眼科学会で、永田誠が光凝固を本症の活動期の治療に応用し、本症の病勢が頓挫的に中断されるのを経験した旨報告したことに始まり、他に治療法がなかつただけに、光凝固が本症の治療法として注目を浴びるに至つた。ただ、成人の網膜剥離に対するのと異なり、本症の場合は、網膜の栄養上不可欠な新生血管発達の素地となる網膜組織を凝固破壊するだけに、それが将来の視力に如何に影響するかが懸念されたのは当然であつた。それにしても、アシュトンは、右以前に動物実験及び病理所見から本症が糖尿病性網膜症やイールス氏病などと酷似していることを早くから指摘し、これらの疾患の治養法が本症の根本的治療法になろうと予言していたという。

以下、四九年度研究班報告に至るまでの本症に対する光凝固の応用過程につき、おおよその年代を追つて考察する。

(1) 昭和四二年から同四五年

永田誠の右報告は、翌四三年四月同学会雑誌(臨床眼科二四巻五号)、次いで眼科一〇巻一〇号にそれぞれ掲載されたのであるが、それらによると、対象となつたのはオーエンスの分類の活動期Ⅲ期に進行して行くのを確認のうえ(つまりⅡ期の末期)、全身麻酔下で網膜周辺部の血管新生の盛な部分に光凝固したところ、前記のとおり頓挫的に病勢の中断するのを経験したというのであり(この凝固部位は、成人のイールス氏病に対する光凝固を踏まえて、新生血管に目標を置いたのであつたが、その後、この部位への凝固は禁忌とさえいわれており、永田誠もその後に見解を改めている)、「この二症例の経験は従来無力であつた未熟児網膜症重症例の治療に一つの可能性を示すものということはできるが、我々の判断と症例の選択が正しかつたか否かは今のところ判断できず、今後の追試にまつほかない。」と述べている。続いて永田誠は、昭和四四年秋の前同学会で、同四三年一月から同四四年五月までの四症例に対する実施例を報告し(同四五年五月に臨床眼科二四巻五号「未熟児網膜症の光凝固による治療Ⅱ」掲載)、更に、同四五年一一月、以上の六症例及び新たに実施した同四四年の二症例、同四五年の四症例の合計一二症例の結果について報告し(臨床眼科二四巻一一号)、そのなかで、「本症は活動期の或る特定時期に光凝固法を実施すれば治癒する」旨述べ、本症の発症時期を生後ほぼ三週間以後と把握し、その頃から眼底検査を始め、状況により爾後の検査の要否及び検査の間隔を決め、光凝固の適期をオーエンスの分類による活動期Ⅲ期で、目標を網膜剥離を起す直前に置くべきであるとした。その理由は、Ⅲ期に入つてもかなりの自然寛解率を示すことが次第に明らかになつたことによる知見の変更であつた。ただ、自然寛解した症例のうち、Ⅲ期まで進んだものは瘢痕が残りうること、そして、その場合には将来強度の近視ないし弱視になる虞れがあるところ、自然寛解を正確に予測できず、他方、時機を失した時の結果が重大なことから、次善の策として或る程度不必要な症例への光凝固もやむを得ないとし、今後この治療法を全国的に実施するためには多くの困難がある旨述べている。なお、この段階では、他の一部の研究機関が試行的に光凝固の実施に着手しているものの、実施結果の報告としては、永田誠らのもの以外には、殆どなかつた。

(2) 昭和四六年

昭和四六年に入ると、同年四月には、関西医科大学眼科教室の上原雅美らが、昭和四四年の一症例、同四五年の四症例について、それまで成人の各種網膜血管症の治療に使つた光凝固の実績を基礎として、本症につき行つた追試結果を、また同年九月には九州大学の大島健司らが同四五年の二三症例について追試結果を、いずれも発表し、光凝固の病勢進展阻止効を評価した。なお、上原らは、その中で、光凝固の適期について、永田誠同様にオーエンスⅢ期に入るまでは自然寛解を期待し、同Ⅲ期に入ると、重症な瘢痕を残す可能性が大きいから、速かに光凝固を行うことを目標にしたと述べると共に、不奏功例の原因についても触れ、急速に進行する症例のあることなどに基づき、児の体重、眼底の未熟性、投与した酸素量を考慮しても、果して重症な経過を辿るか否かの判定及び光凝固の実施時期の選定が困難であると指摘した。

なお、名鉄病院眼科の田辺吉彦は、同四六年一一月に、光凝固による作用機転を、無酸素症に陥つた網膜組織を壊死に導き、酸素消費を少なくさせるなどして、網膜循環状態を改善し、浮腫を取り除くことにより自然寛解へ導く契機となると共に、凝固瘢が将来剥離の防止にも寄与するとの観点から、光凝固の適期をオーエンスのⅡ期に入つた時点と把え、Ⅱ期に進むと思われる症例ではⅠ期に施行することも許されるとの見解を発表した。しかし、この見解は、自然寛解率の高いことを無視したとの批判を免れないし、光凝固の作用機転に関するこの論が仮説に止まることはいうまでもない。

(3) 昭和四七年から同四九年

症例及び光凝固追試の報告が増加するにつれ、本症の臨床経過の多様性と自然寛解率が極めて高いことも判明し、自然寛解するか進行するかを如何にして判定するかの問題に直面した。また、光凝固に必ずしも反応しないいわゆる激症型といわれる本症の病像も次第に鮮明になつて来た。かくして、昭和四七年三月には、永田誠により、同人らの光凝固による本症治療(従前の報告例を含む合計二五症例)についての総括的報告がなされているところ(臨床眼科二六巻三号「未熟児網膜症の光凝固による治療Ⅲ」)、同人は、そのなかで「本症に対する治療法は理論的に完成した」とし、今後の課題は、光凝固治療要否の適切な判定基準を確立し、同治療法をいかに全国的規模で実行するかという点に、主な努力が傾けられるべきである」旨述べており、ほかに、国立大村病院眼科、長崎大学眼科教室の本多繁昭(同年一月眼科臨床医報六六巻一号)、名鉄病院の田辺吉彦ら(同年五月日眼会誌七六巻五号)、兵庫県立こども病院の田渕昭雄ら(同年七月臨床眼科二六巻七号)を含む数多くの光凝固の有効性を支持する症例報告がなされた。しかし、これらの報告者も、光凝固を根本的治療法とは考えていなかつたのであり、例えば、右田渕らは光凝固により破壊された網膜組織への危惧を表明している。また、田渕ら、本多ら及び植村恭夫は、右の機会に発症より進行が極めて早く特殊な経過を辿る症例の存在について触れ、本法の実施時期判定の困難さを訴えている。

更に、昭和四九年には、大島健司らや植村恭夫は、本症には光凝固法によつても救いえないタイプがある旨指摘すると共に、自然寛解率が高いため効果の判定が難しく、実施報告例のなかには過剰侵襲例もあるのではないかとの疑念を表明した。それに、永田誠自身が回顧して、最初に光凝固した数例の中には、僅かながら瘢痕を残さずに自然寛解する例があつたかもしれないと述べている。

なお、昭和四九年三月八日、時の政府は、参議院議長に対し、同四七年度までに行われた本症に関する調査研究の結果、効果のある治療法として光凝固が有効であるとの新しい知見が得られた旨の答弁をした。

以上のような問題状況下にあつて、精密な検査器具等の発達・普及に伴い、本症の眼底病変等につき、かなりの精度の安定した情報が得られるようになつていた(例えば、眼底の写真撮影)ことから、同じ物差しによる研究者間の追試床例の評価や意見交換等を可能にするため、植村恭夫を主任研究者、分担研究者として眼科医八名、小児科医二名、産科医一名からなる四九年度研究班が発足した。

(4) 昭和五〇年

昭和五〇年に入つてからも、鳥取大学医学部眼科学教室の瀬戸川朝一ら(同年一月眼科臨床医報六九巻一号)、松山赤十字病院眼科の幸塚悠一ら(同年一月臨床眼科二九巻二号)の追試報告がみられるところ、後者は光凝固の適期をⅡ期症状のうち、境界線が約三分の一周から二分の一周にかけて完成し、走行に凹凸がみられてくれば凝固を試みていること、早期に試みる代りに数列にわたり密に凝固することはせず、一列のみスポットと同径の間隔を置いて境界線の巾だけ凝固することにしていること、光凝固の作用機転として、病変を促進する因子の破壊や網膜浮腫の吸収を推定する説を支持しているが、これらの報告のなかでも依然過剰侵襲に対する懸念が表明されると共に、一方では、光凝固についての眼科医の教育を目的としたと思われるような論文も現れている。

そして、同年三月には実質二か月前後の期間の討議を経て、多彩な臨床例を集約し、四九年度研究班報告がまとめられ(同年八月発表)、これにより、光凝固の適応、実施時期、実施方法等について、一応の基準が示されるに至つたが、同報告には「この治療基準は現時点における研究班員の平均的治療方針であるが、これらの方針が真に妥当なものか否かについては、今後の研究、検討課題である」旨付記されている。なお、同研究班では、Ⅰ型の光凝固の適期との関連でⅢ期を初期、中期、終期に細分化すべきであるとの意見が出されたけれども、班員の間で凝固適期についての意見が岐れたため、保留された。

(二) 光凝固の治療基準

光凝固に関する治療基準は、主に適応症例の選定、治療適期及び凝固部位と程度の問題に帰着する。即ち、本症は自然寛解傾向の極めて高い疾患であり(自然寛解率に関する多くの知見があるが、例えば、オーエンスは活動期の三分の一はⅠ期、四分の一はⅡ期で進行を停止すると述べており、植村恭夫は自然寛解率を八五パーセントとしている。)、一方で、光凝固は網膜組織に損傷を加えるものであるため、過剰侵襲を避けるための適応症例の選定と、過剰侵襲を避け且つ治療時期を失しないための治療適期の決定が極めて重要であると共に、どの部位をどの程度に凝固すれば効果的かの点も吟味の要がある。したがつて、この三点を中心に、以下、光凝固に関する治療基準の変遷を概観する。

(1) 四九年度研究班報告以前の状況

この時期は、臨床例が少しずつ蓄積されて多彩な病像が次第に明らかになつて行つた段階で、光凝固の適応の問題については、四九年度研究班報告にいうⅠ型、Ⅱ型の区別が十分意識されておらず、主として、Ⅰ型について、治療適期との関連で適応の問題が論じられていた。そして、治療適期については、研究者によつて必ずしも一致していないばかりか、同一研究者によつても病像が明らかになるにつれ、変化している状況であつた。かかる事態は、光凝固の作用機序が解明されておらず、追試者において自ら信ずる作用機序に即して、適期を設定したことに基づくものである。同様の傾向は、凝固部位についてもみられる。加えて、この時期は、前記のとおり本症の臨床経過の分類が統一されていなかつたため、その点における混乱も甚しいものがあつた。

(2) 前同報告の治療基準

前記昭和五〇年三月に同研究班報告が提出(同年八月発表)され、漸く、一応の統一的治療基準が示された。これにより、初めてⅠ型とⅡ型(ほかに混合型)の区別が明示されたのであるが、当時班員の間でもⅡ型の病像を初期の段階から観察したという経験者が少なかつたこともあつて、前記のとおり、その臨床経過や診断基準が必ずしも明確にされていなかつたけれども、適応の問題については、Ⅰ型では自然解寛しない少数の重症例のみに治療を施行すべきであるが、Ⅱ型では失明を防ぐために迅速な治療が望まれるとした。また、治療適期の問題については、Ⅰ型については、同報告の分類にいう活動期Ⅲ期において、更に進行の徴候が認められる時点で治療を行うべきであり、Ⅱ型については、無血管領域が広く全周に及ぶ症例で、血管新生と滲出性変化が起り始め、後極部血管の迂曲、怒張が増強する徴候がみられた場合は、治療適期の把握が困難であるから、直ちに治療を行うべきであるとされている。

そして、光凝固治療の方法について、全身状態不良の際は、生命の安全が治療に優先するのは当然であると前置きしたうえ、Ⅰ型では、無血管帯と血管帯との境界領域を重点的に凝固するほか、無血管帯が広い場合には境界領域を凝固し、更にこれより周辺側の無血管領域に散発的に凝固を加えることもあるとし、Ⅱ型では無血管領域にも広く散発凝固を加えるとする。なお、同報告は、Ⅰ型の光凝固治療の重点を自然瘢痕による弱視発生の予防法としながら、長期観察結果が判明するまで適応に問題が残つているとし、Ⅱ型のそれは放置すれば所詮失明ないし視力の重度障害に至るところ、他に方法がないため、ダメージを伴う光凝固でも、なお効果が期待できる場合もあるから試みる価値があるとして、それを実施することに疑義がないとしながら、具体的な治療方法等に検討の余地が残されているとするのであるが、いずれにしても光凝固の作用機序について明言しておらないため、期待される真正の効果も不明というほかない。

(3) 前同報告以後の状況

同報告の最大の問題点は、光凝固の典型的適応事例とされた肝腎のⅡ型、混合型について、その診断基準、治療基準が必ずしも明らかでなかつたことであるが、Ⅱ型の診断基準については、昭和五一年一月発表の森実秀子の論文によつて一応のものが示されたが、その後もなお、同報告の診断、治療基準、殊にⅡ型、混合型の診断と治療の基準について、検討が重ねられている状況にある。

(三) 光凝固の問題点と評価

(1) 光凝固は、前記のように光によつて未熟な網膜組織を焼いて破壊するものであり、誤つて黄斑部等を照射すれば、一瞬にして失明を招く危険性を有するところ、光凝固装置は使用上熟練を要し、慣れないものがこれを使用して凝固を実施するのは非常に危険である。また、凝固に成功した場合でも、将来にどのような障害が残るかは、いまだ解明されていない。

(2) 我が国では、永田誠の発表以来、追試例とみられるものを含め多数実施され、現在では失明児の殆どが本法又は冷凍凝固法を受けているほどである。しかしながら、その効果判定について厳格なコントロールスタデイを経ていないため、外国の研究者は光凝固に対して極めて懐疑的であり、僅かにパッツが実験的に光凝固を試みたケースがあるくらい(但し、片眼凝固)で、殆ど実施されておらず、「本症はNICUの整備により予防されるもので治療すべきでない」との見解(フランスのムーシン)が有力である。そして、現在では、我が国においても、本法の効果に対する疑問が表明されており、他に方法がない以上、緊急非難的になされているというのである。なお、Ⅱ型に関し、「進行が早く治療が追いつかない。Ⅱ型が現れる極小未熟児では中間透光体が混濁しているため、発見されたときは手遅れであつたり、「凝固自体が困難」(馬場昭生)であるなどで、「光凝固法によつて救いうるのは三分の一から二分の一にすぎない」(秋山明基、植村恭夫、永田誠)との見解が有力である。

(3) 光凝固を実施するための具体的条件に関し、「眼底検査をすべき眼科医側の体制が十分ではない。国立病院ですら眼科医の欠員のところが多く、ましてや総合病院のみではなく産科医の持つすべての未熟児室へ眼科医が巡回し、検査する余裕など夢物語といつてよい」(大阪市立小児保健センター湖崎克、日本の眼科四六巻三号、昭和五〇年)とか、「現在光凝固法等に関する教育の可能な施設は全国でごく少数に過ぎないので、現時点では未熟児網膜症に関して実際の診断、治療能力を持つている眼科医の数は決して十分とはいえず、今後この数を増やすべく長期にわたる努力が必要である」(永田誠ら、日本眼科紀要二五巻五号、昭和四九年)とする論文がみられる。

4  冷凍凝固法

冷凍凝固法は、光凝固の「光による凝固」に対して、冷凍装置により網膜を冷凍することによつて同様の効果を発生させ、本症の病変を停止させようとするもので、東北大学の山下由紀子らによつて開発、報告された。この冷凍凝固は、光凝固より装置が安価で、かつ、手技的にもやさしいし、ヘイジメデイアがあつても実施できるという特色を有するが、反面、凝固の範囲、大きさ、強さが正確にコントロールし難いという面もあり、光凝固法との間では、その特性に応じた使いわけがなされている。

第三被告らの責任

一総論

およそ医療は、未だ解明し尽されていない複雑多様の生命現象を対象とし、予想される病的侵襲の予防に意を用いると共に、患者の病的侵襲状態を改善に導く努力を指向する一連の行為である。特に、治療行為は、大きい病的危険を克服するための小さい危険と評されるように、多かれ少なかれ患者の生命、身体に対する医的侵襲を伴うだけに、広義での副作用を考慮に入れながらも、安定した改善効果が、一般的に期待できるものでなければならない。この医療のありようを我が国の医療体制の側面からいえば、医療行為は、その診療当時のいわゆる臨床医学の実践における医療水準に達したものでなければならないということである。したがつて、人の生命及び健康を管理すべき業務に従事する医師に対しては、危険防止のために実験上必要とされる最善の注意義務が要求されるのはいうまでもないところであり、医師が自己の専門とする診療分野についてはもとよりのこと、その隣接分野についても、日進月歩する医療技術の修得に努め、高度の臨床医学知識に基づき、最善を尽くさなければならない責務を負つておることは、原告らの指摘をまつまでもなく、当然のことというべきである。

もつとも、右医師の診療における注意義務を判断する基準となるべきものは、矢張り前叙診療行為につき要請される臨床医学の実践における医療水準であることはいうまでもない。したがつて、例えば、一部の先駆的研究者による実験的研究結果が改善効果のある治療法として学会、専門誌等で発表されても、原則として、それらが厳密且つ十分な追試及び研究を経たうえ、長期的展望に立つて安定した改善効果が確認され、同時にその学問的な診断及び治療の各基準が客観化されて、臨床医学の実践の場に定着する段階に達しない限り、これを採用しなかつたからといつて、注意義務違反の責を負うことはないというべきである。

また、医療行為は、本来、生体に対してなされるものであるが、生命現象が複雑で支配不可能な要因が存するうえ、疾病の性質と経過は、患者の数と同じだけ多様であるといわれるように、症状に個体差を免れず、したがつて、その医療方法も一義的に確定できず、むしろ個体差により不可避な不確実性を伴うのが一般であり、加えてその医療行為が限られた時間的制約のもとに遂行されなければならないものであるから、そうした医療行為に必然的に伴う制約に照らすと、医師には医療方法の選択等につき、右に則した或る程度の裁量が認められるべきは当然であつて、それが、右の医療水準に照らして合理的裁量の範囲内に属する場合には、当該医師の過失を問いえないというべきである。更に、医療行為の内容は、当該医師の置かれている医療環境、即ち、地域的、地理的条件や、各種研究機関を有する大学病院、国公立その他の総合病院など、医師の専門性、医療設備の充実度等で差異があるから、これらの諸事情をも総合考慮して、医療水準、延いてはそれに基づく具体的な注意義務違反の有無を決する必要がある。

そこで、医療行為に付随する諸義務の一般論にも触れておくことにする。

1  説明義務

いわゆる医師の説明義務は、それが機能する観点から、患者側の同意を得るための前提としてなす医療行為についての説明義務と、いわゆる結果回避義務としての説明義務に分かれるところ、これらが、民法六五六条の準用している同法六四五条を根拠として発生するものであることは、論をまつまでもない。そして、これらの説明義務が、それぞれの場において、時機を逸することなく履行されなければならないことも、いうまでもないところである。

(一) 治療行為についての説明義務

この説明義務は、実質的には、医療行為が患者の身体に対する侵襲を伴うことから、患者ないしそれに準ずる者のいわゆる自己決定権を保護する趣旨であるから、説明義務の内容及び範囲もそれに即したものとして、疾病の診断、その疾病につき可能な治療行為の内容、効果、予後及び危険性と、それらの医療行為をしない場合の予後ということになる。しかも、ここに可能な治療行為は、医師の裁量の範囲内として複数の場合がありうるが、いずれにしてもその当時において、前叙臨床医学の実践における医療水準に基づくものでなければならないことはいうまでもないし、それをもつて足るというべきである。

(二) 結果回避義務としての説明義務

医師は、担当している患者に発症の予見される重大な疾患、あるいは現に発症している同疾患につき、自らの医療技術でもつて予防や治療を行いえない場合には、その患者に前記医療水準に叶つた医療技術による発症の防止ないし治療の機会を得させるため、患者もしくはその保護者に対し、右に則した説明をなすべき義務がある。元来、この義務は、医療水準に叶つた医療技術により、結果の回避が一般的に可能であることを前提とするのであるから、かかる医療技術の裏付がない場合には発動の余地がないというほかない。

この点について原告らは、ある治療法が未確立のもので、当該医師としてはその治療法を実施すべきでないと考えた場合でも、同治療法が専門医たちの間で有効性を承認されつつある段階に達しているときは、患者に対しその説明義務が生ずると主張する。確かに該治療法の問題状況が客観的に説明される限り、弊害はないであろうから、その種の説明は歓迎すべきであろう。しかし、こと医師の診療上の義務に関する限り、いやしくも未確立の治療法が施用されてはならず、それに関する説明義務もないものと解すべきであつて、原告らの右主張は採用できない。

2  転医勧告義務

ある疾患について、当該専門領域における医療水準が、当該医師の具体的な医療技術を超えている場合を含めて、前記結果回避義務を負担する医師は、患者がその水準の医療行為を受けうるように、他の専門医や設備の完備した病院に患者を転医させる義務を負う。この義務は、医師の結果回避義務の一環として肯認されるのであるから、いわゆる水準に達した治療行為の技術及び設備をもつ病院が転医先として選ばれなければならないであろうし、治療の適期でなければならないであろう。これに反する原告らの主張には、左袒できない。なお、転医させる際には、受け入れ先の医師に対し、診断所見と予想される治療行為について説明すべき義務が発生すると解すべきである。

二各論

先ず原告患児らが本症に罹患し、いずれも失明したことは、第一の二(原告患児らの視力障害)で説示のとおりであり、そのうち、被告日赤は原告明宏につき、被告国は原告秀樹につき、また被告済生会は原告浩二につき、いずれも本症罹患の事実を強く争うのであるが、十分な根拠があるとは解し難く、採用できない。

そして、原告患児らが、いずれも出生直後から保育器に収容されたうえ、酸素の投与を受けたことも、右第一の二で説示のとおりである。そうだとすれば、原告患児らは、特段の事情なき限り、右の酸素投与が一因をなして、本症の各発症をみたと推認するのが相当であるところ、この推認を妨げるに足る特段の事情は認め難い。そこで、順次原告らの主張に則して、被告らのいわゆる発症責任及び治療責任につき判断する。

1  発症責任

原告患児ら(但し、原告亜希子及び同健一郎を除く。この項では以下同じ)の本症発症につき、各関係被告(但し、原告昌宏につき被告国、原告政子、同弥生、同さつきにつき被告京都府を除く。この項では以下同じ)について考察する。

先ず、第二の五(予防法)で説示したように、酸素誘導型と目される本症について、少なくとも昭和五〇年頃までの間の臨床の場に、有効な酸素管理の方法は定着していなかつた。この点について原告らは、血液採取による酸素分圧の測定値をモニターとする酸素管理とか、ウォーリー・アンド・ガードナー法によるそれを実施すべきであつた旨主張するのであるが、そのいずれもが、右第二の五で説示のとおり、有効かつ精密な酸素管理の方法とはいえないのである。それに、管理方法以前の問題として、本症の発症を予防し得る酸素管理の尺度が確立していないことも、既に説示のとおりである。そうだとすれば、本症予防の観点からの具体的な酸素投与の批判は、極めて困難というべきである。

しかも、超未熟児はもとより、極小未熟児にとつても、保育の観点からは一般的に酸素投与を必要とすると共に、担当の医師としては、児の救命及び脳障害の防止を第一義とする観点から、医療水準に依拠した裁量の範囲内で、児の臨床症状に応じた酸素投与をなすのであるから、明らかに合理的な裁量の範囲を逸脱した過剰投与がなされたと解される場合でなければ、批判の余地がないというべきである。よつて、以上の見地から、原告患児らにつき検討する。

(一) 原告律子(被告大阪医大)

右第一の二1の説示及び証人外賀治の証言によると、担当の外賀医師は、昭和四六年当時、大阪医科大学産科、婦人科講師を兼ねていたのであるが、生後四日目に転院して来た双胎の原告律子(第一子)と京子(第二子)の保育を担当したこと、同医師は、同原告の如き極小未熟児には酸素投与が絶対に必要であるものの、本症の防止の観点から酸素濃度四〇パーセントの範囲内で、いわゆる漸減方式に従い、児の症状に応じて必要量を投与すべきであるし、児の呼吸機能の未熟性を考慮し、保育器内の温度を三二、三度にすると酸素消費量が一番少なく、最も有効に酸素の利用ができるとの医療上の知見に則り、前認定のとおり器内温度を三二度に設定し、三六パーセント程度を最高濃度とし、全身状態の好転の度合いに応じて、順次低減した濃度の酸素を投与していること、以上の事実を認めることができ、この認定を動かすに足る証拠はない。なお、本症の発症防止の観点から第二の一(未熟児)の説示に照らして、同医師に裁量の範囲の逸脱と評されるべき事情は認め難い。

(二) 原告幸夫(被告三菱自工)

右第一の二2の説示によると、原告幸夫は、骨盤位分娩により出生したところ、軽症仮死状態にあつたのであるから、第二の一1(生理的機能と病変)の説示により明らかなように、特発性呼吸窮迫症候群に罹患し易く、頭蓋内出血が懸念される状態にあつたこと、したがつて、担当の小柴医師が死の危険を感じたというのも首肯するに十分である。そして、同原告のその他の臨床症状をも考慮すると、相当期間の酸素投与は必須というべく、昭和四六年当時、三菱京都病院産婦人科長であつた小柴医師は、その医療上の知見に基づき、本症防止のため酸素濃度四〇パーセントの範囲内で、いわゆる漸減方式に従い、同原告の臨床症状に応じて酸素の投与をしているのであつて、相当の処置というべく、前同様に本症の発症防止の観点から同医師につき、批判されるべき事情は認め難い。

(三) 原告昌宏(被告三菱自工)

右第一の二3の説示によると、原告昌宏は、母胎の前期破水から約一週間を経て出生しているところから、担当の小柴医師において同原告が右の間に酸素不足の状態に見舞われたと判断し、出血傾向を懸念しながらも、本症の発症を予防するため、できる限り酸素の投与方法を厳格にし、投与期間を短縮するという観点から、同原告の臨床症状に応じて酸素投与をしていることが看取されるほか、前同様に本症の発症防止の観点から同医師につき、批判されるべき事情は認め難い。

(四) 原告成子(被告日赤)

右第一の二4の説示及び証人遠藤賢一の証言並びに弁論の全趣旨によると、原告成子は、母胎の不正性器出血により心音聴取不能の状態で、人工破水により出生したのであつて、生下時体重が超未熟児に近く、全身状態も極めて不良で、危険な状態にあつたこと、担当の遠藤医師は、昭和四四年当時、未熟児保育を約七年間担当していたところ、原告成子の呼吸状態と脳出血を懸念してビタカンファーと止血剤を投与したのを始め、その後の臨床症状の動向に注意を払い、本症の予防を考慮しながら対応しているのであり、右第二の一の説示に鑑みても、同医師の保育処置は、医療水準に依拠した裁量の範囲内でなされていることが認められる。

(五) 原告朋宏(被告日赤)

右第一の二5の説示及び証人田中健治の証言によると、原告朋宏は、前期破水から四日目に、前置胎盤に加えて、心音不整等のため、帝王切開により出産したのであるが、全身状態が極めて不良であつたこと、担当の田中医師は、昭和四二年当時、小児科医として約五年の臨床経験を有していたところ、同医師が原告朋宏の臨床症状から、事態を極めて深刻に受け留めながら、東大小児科指針に則つて本症の予防に意を払い、同原告の臨床症状に応じ、裁量の範囲内で保育処置をしていることが認められる。

(六) 原告光昭(被告日赤)

右第一の二6の説示によると、原告光昭は、在胎中の母胎の状況は、必ずしも芳しくなかつたうえ、臍帯巻絡一回あり、仮死状態で出生し、入院時の全身状態も不良であつたこと、そこで、入院時の担当であつた木戸医師は、特発性呼吸障害などによる生命の危険があると判断し、四〇パーセント未満の酸素投与を始めたこと、その後担当となつた八木医師(証人八木良三の証言によると、昭和四四年当時、小児科の臨床経験約六年)も、全身状態及び呼吸機能の改善に応じ、漸減方式に従つて酸素投与量を制限したこと、その間、第二の一の説示に照らして同医師の全身管理につき格別裁量の範囲を逸脱したと評されるほどの事実は窺いえない。

(七) 原告政子(被告日赤)

第一の二7の説示及び証人好地利栄子の証言によると、原告政子は、双胎第一子であつたが、母胎に多量の性器出血があつたうえ、双胎のほか前置胎盤であつたため、帝王切開により出生したこと、なお、第二子は、出生直後に死亡したこと、原告政子も仮死状態で出生したのであり、生下時体重が超未熟児に近く、全身状態も芳しくなかつたこと、担当の好地医師は、昭和四四年八月当時、小児科約一年、未熟児保育約一一か月の臨床経験を有していたところ、本症防止の見地から最高濃度を三五パーセントとし、臨床症状の改善につれて低減した酸素を投与したことが認められるほか、同医師の全身管理につき前同様、裁量の範囲を逸脱したと評されるべき事実は認められない。

(八) 原告弥生(被告日赤)

右第一の二8の説示及び証人三好鏡子の証言によると、原告多津子は、原告弥生の妊娠中に強度の喘息発作により入院看護を受け、母胎保護のためいわゆる人工早産に踏み切つたほどであるから、同発作の際に、かなりの低酸素状態に陥つたことは動かし難いところであり、これに伴い胎内にあつた同原告が低酸素症ないし無酸素症に陥つたことも推測するに難くなく、相対的にではあるが在胎週数に比して生下時体重が低いことや、出生時に仮死状態であつた(アプガースコアも低い)ことも、右の推測を裏付けるに十分というべきであること、しかも、原告弥生は、特に頭蓋内出血が懸念される骨盤位(複殿位)の異常分娩により出生しているのであつて、予後が極めて憂慮される状態であつたところ、三好医師は、昭和四六年当時、小児科医として二年未満の臨床経験を有していたところ、原告弥生の出生時の状況から、特発性(遷延性)呼吸窮迫症候群に罹患しており、生命の危険が予測されると判断して、対応する処置を講ずると共に、本症予防の観点から最高濃度を三〇パーセント以下とする酸素を、臨床症状に応じて漸減方式により低減しながら投与したこと、もつとも、原告弥生には保育の過程で吐乳による体重減少、四日間の下痢気味の状態に続き、かなり長期の下痢による体重の増加傾向の不良とか、口中に鵞口瘡ができるというトラブルが生じたことが認められる。

右に認定のトラブルは、水分及び栄養補給に問題があつたことを推測させるし、これが酸素投与の期間の遷延化をもたらしたことも否定できない。しかし、冒頭の説示に照らすと、これだけの事実をもつて原口弥生の本症発症の帰責事由となしえないことは、いうまでもなく、他に前同様に裁量の範囲の逸脱と評されるべき事実は認められない。

(九) 原告さつき(被告日赤)

右第一の二9の説示と証人八木良造の証言によると、原告さつきは、母胎の破水から四日を経過し、臍帯巻絡一回の状態で出生したところ、全身にチアノーゼが発現し、啼泣すらなかつたため、二分間の純酸素投与により蘇生術が行われたこと、その後も呼吸状態が悪く、無呼吸発作が消失したのは生後三六日目(昭和四八年三月七日)であつたこと、したがつて、担当の前記八木医師は、本症の予防の見地から濃度を極力押えて三八パーセント以下で、かつ期間を短縮することに意を用い、原告さつきの臨床症状に応じて酸素を投与したことが認められるほか、同医師の全身管理につき前同様に裁量の範囲を逸脱したと評されるべき事実は認められない。

(一〇) 原告秀樹(被告国)

右第一の二10の説示及び証人小柴壽彌の証言によると、原告秀樹は、長期間にわたり呼吸機能が安定しなかつたことと、担当の小柴医師は、昭和四三年六月当時、産婦人科約四年の臨床経験を有していたところ、同原告の死ないし脳障害を予防する見地から、一般状態が落着き、体重が増加し始めるまで、症状に応じ漸減方式により酸素投与をしたこと、なお、同原告は、同一の保育器に他の児と一緒に収容され、しかもその児が暴れたらしく同原告に装着されていたカテーテルが少なくとも二度抜去されたものの、そのが同原告の生理状態を悪化に導き、余分な酸素投与を必要とするまでには至らなかつたことが認められる。

同一の保育器に二児を収容することが、個別看護の原則に反することは、第二の一2(四)に説示のとおりであるが、原告秀樹については、右が直ちに本症の発症に繋つているとは解しえず、他に本症の発症防止の観点から、同医師に前同様裁量の範囲を逸脱したと評すべき事実は認め難い。

(一一) 原告浩二(被告済生会)

右第一の二12の説示及び証人西田桓一郎の証言によると、原告浩二は、在胎週数の極めて短い未熟児として出生し、全身状態も不良であつたところ、昭和四四年一二月当時、小児科医長であつた担当の西田医師は、同原告の出血傾向を予防するため、二ないし三週間の酸素投与の必要を認めたものの、高濃度の酸素環境の中に長期間収容すると、本症が発症するとの知見を有していたため、同原告の全身状態に考慮を払いながら、安全圏とされていた環境濃度四〇パーセント以下の酸素を、臨床症状に応じて低減しながら投与したこと、当時、同病院の夜間診療の時間帯に、原告浩二及び同原告両親らが指摘するように看護婦不足があつたこと、そして、同原告は、原因が明らかでないが脳生小児麻痺にも罹患していること、以上の事実を認めることができ、この認定に反する証拠はない。

右認定事実によれば、看護婦不足のため、当時、一般的に患者に対し、行き届かない面のあつたであろうことは否定できないが、原告浩二の本症及び脳性小児麻痺の各罹患が、それに由来すると断ずるに足る証拠はなく、そのほか西田医師につき、前同様に裁量の範囲を逸脱したと評すべき事実は認められない。

このようにみてくると、原告患児らにつき、担当医師らが明らかに医療水準に依拠した合理的な裁量の範囲を逸脱して酸素の過剰投与をしたと断ずるに足る事実は認められないうえ、本症の発症を予防し得る酸素管理の方法が確立していないのであり、いずれにしても原告患児らの本症発症につき、関係被告らに不法行為もしくは債務不履行の責任原因事実を認めるに由ないといわなければならない。

2  治療責任

原告患児ら(但し、原告朋宏を除く。この項では以下同じ)の本症につき、各関係被告について考察する。

(一) 治療法の医療水準性

総論の説示に基づき、第二の六の治療法につき吟味すると、先ず、薬物治療及び逆酸素療法は、本症の治療法として、未だ安定した改善効果を期待するには足りないというべきである(もつとも、さきに認定したように、原告患児らのうちには、右の一部を治療として施用されている者もあるが、右の評価から直ちに施用した医師が問責されることにはならない。)。

次に、本症の治療法としての光凝固及び冷凍凝固(以下では、両者を「凝固法」等と総称する。)について検討する。

本症Ⅰ型は、極めて自然寛解率が高い。しかし、極く一部(混合型を含む)は、失明ないし重度視力障害を招来するところ、それにつき抜本的な改善効果が一般的に期待できる治療法は、開発されていない。その間にあつて凝固法は、短期的な観察からすると、適正な施用により少なくとも進行阻止の消極的改善効果が一般的に期待でき、これにより最悪の事態を回避することが可能である。ただ、凝固法が部分的にもせよ、未熟な網膜組織を破壊するだけに、長期的展望に立脚して、右の進行阻止効の安定性に疑問が投げかけられているのである。もとよりそれは、医療のあり方として当然の姿勢というべきであるが、抜本的な改善効果が期待できる治療法がないことを前提とし、凝固法の対象を厳密に失明ないし重度視力障害に至る患児に限局するならば(実際にもそのようにあらねばなるまい)、長期的展望がどうであれ、凝固法は、一時的にもせよ進行阻止の消極的改善効果が一般的に期待できるのであるから、なお本症の治療法として容認されるべきである。もつとも、右に則つた凝固法が医学水準に達した治療法として評価されるためには、まず本症Ⅰ型につき失明ないし重度視力障害を生ずる患児を選別し、進行阻止効が一般的に期待できる適期に、適正な部位への施用の方法が、医学上に確立していなければならないことはいうまでもない。

よつて、この見地から、凝固法に関する学問的状況につき考察すると、第二の六で認定の研究者の追試症例の報告等によれば、昭和四七年当時、Ⅰ型、Ⅱ型の病像は自覚的に区別されていなかつたが、実際上大部分を占めるⅠ型の範疇に属する臨床例を眼中に置き(その中には自然寛解するものもあつたと推測されるが)、凝固法に右の趣旨の進行阻止効があるとの評価は、研究者間の共通の認識になつていたと解して妨げないというべきである。しかし、進行阻止効を可能にする適応症例の選別、適期の判定及び凝固部位の確定等の診断と治療の各基準については、研究者間に統一的な評価の物差しが欠落していたばかりでなく、実質的にかなりの相違ないし不確定な点がみられたのであり、医学水準としての各基準は、Ⅱ型の診断基準を別として、昭和五〇年三月に提出された四九年度研究班報告により確立したと解するのが相当である。もつとも、前認定のように同報告では、「これらの方針が真に妥当なものか否かについては、今後の研究、検討課題である」としているが、これは、本症の原因が解明されていないことを含めて、支配不可能要因を秘める生体に対する医学上の提言として当然の姿勢というべく、右説示の妨げにはならないというべきである。

なお、本症Ⅱ型については、凝固法の適応があるのかという点に未だ疑義が存在するといわざるをえないし、昭和五一年当時までに同法が医学水準に達した治療法として確立していたとみることは困難というべきである。

そこで、本症Ⅰ型につき、四九年度研究班報告の基準が、臨床の現場に定着し、臨床医学の実践における医療水準に達したと解される時期であるが、前記報告が公表された昭和五〇年八月以降ということになるものの、人的及び物的な設備の制約(制約の程度については問題があろう)等をも考慮すると、或る程度相対的に考えるほかなく、右以前から凝固法の施行を前提とした治療を行つていた医療機関については、遅くとも同年末頃を定着の時期と解するのが相当である。したがつて、この結論と大きく見解を異にする原告らの主張は、排斥を免れない。

(二) 原告患児らと凝固治療

(1) 原告健一郎を除く原告患児ら

前項で説示したように本症Ⅱ型に対する凝固治療はもとより、同Ⅰ型に対するそれも、昭和五〇年当時まで、臨床医学の実践における医療水準に達した有効な治療法として確立されておらず、したがつて、その当時までの本症の患児の担当医としては、右水準に達した有効な治療法を前提として存在意義を有すると解すべき眼底検査義務はもとより説明義務及び転医義務等をも負担するものではないと解さなければならない。

そうだとすれば、昭和五一年に本症に罹患した原告健一郎を除き、凝固法が医療水準に達する以前に本症に罹患した原告患児らについて、それぞれ担当の医師は、いずれも原告らが主張する眼底検査義務、凝固実施義務、説明義務及び転医義務を負担するものではない。そうだとすれば、各関係被告に不法行為もしくは債務不履行の責任原因事実は認め難い。

(2) 原告健一郎(被告日赤)

第一の二13で認定した事実によると、第一日赤病院では、原告健一郎の両眼に対し、昭和五二年二月二五日と同年三月二日、それぞれ冷凍凝固、同月一八日に光凝固(但し、効果なし)が施行されたものの、功を奏さず、同月末頃両眼とも失明に至つているところ、問題は、失明に至つた理由である。

右第一の二13の事実と証人久富文雄(後記措信しない部分を除く)、同赤木好男(第一回)、同竹内萬寧、同根来良夫の各証言並びに弁論の全趣旨によると、第一日赤病院の関係医師らは、原告健一郎の本症をⅠ型と把握していたこと、そして、同原告に対する最初の冷凍凝固の施行者である根来医師は、府立医科大学助教授を経て第一日赤病院の眼科副部長に就任していたところ、二月二五日の凝固治療直前の同原告の眼底所見として、第一の二13(四)の(8)で認定した症状のほか、網膜の浮腫が強く発現し、耳側に軽い網膜剥離が生じていたことを挙げ、凝固適期をかなり逸しており、右浮腫の関係で光凝固による凝固斑の形成が期待できないと判断し、同原告の全身状態が必ずしも芳しくないとしながらも、冷凍凝固を施行したところ、徐脈傾向がみられただけで実施できたこと、なお、赤木医師は、右の時点で同原告の眼底所見を活動期Ⅲ期の終りか同Ⅳ期で、どちらかといえば同Ⅳ期の症状と判断したこと、以上の事実を認めることができ、この認定に反する証人久富文雄の証言部分は措信できず、他に右認定を動かすに足る証拠はない。

以上の説示によれば、凝固適期を逸していたことが、該治療の不奏功の原因、延いて失明に至つた理由と推認するのが相当であり、この推認を妨げるに足る特段の事情は認められない。

すると、何故に凝固適期を逸したかが問われなければならないところ、第一の二13の事実によると、理由はどうあれ、赤木医師は二月四日の眼底検査により重症である旨、また竹内医師(眼科部長)は同月八日の同検査により手術が必要だが、全身状態はどうかという趣旨の各警告を発しているのであるから、言葉の通常の意味からすると、同原告の本症につき現に深刻な事態が生じつつあるか、近い将来に生ずることが必至との診断と解するのが相当であること、そうであるからには、いずれにしても爾後、同一検者による頻回の眼底検査を重ねて病勢を監視するか、検者の交替が予想されるのであれば、病勢の監視に遺漏が生じないよう情報の引き継ぎに正確を期さなければならなかつたところ、それがなされていないこと、ただ、第一日赤病院としては、その後一〇日を経過した同月一八日に竹内医師が実施した眼底検査により活動期Ⅲ期に入りかけの症状で、凝固適期を同月二三日と判断して冷凍凝固を予定したのであるから、格別非難されることはないというであろうが、竹内医師の凝固適期の判断は、経過観察による病勢把握の裏付けがなかつたうえ、現に二月二五日には適期をかなり逸していたことに徴しても正鵠を射たものでなかつたことが明白であるし、更に病勢が把握されていなかつたため、同月二三日の凝固治療が見送られた後、原告健一郎の全身状態の悪化を理由としてではあるが、安易に三月二日を凝固治療の予定日に設定したものであること、ところで、同原告は、二月一二日の酸素投与中止後、安定した全身状態が持続していたところ(証人久富文雄の証言)、もともと同月二三日の凝固治療が見送られた理由は、病院側の手落といつてもよい事故を原因とする同原告の全身状態の悪化であつたこと、しかも、原告健一郎は、現に同月二五日の凝固治療に耐えているのである。

このように考察を重ねて来ると、原告健一郎の本症につき、その衝にあつた竹内医師としては、適期を正確に把握して適切な治療を施し、もつて失明等の危険の発生を未然に防止すべき注意義務があるのに、これを怠つた注意義務違背の過失があつたと解するのが相当である。

すると、その使用者である被告日赤は、原告健一郎及び同原告両親に対し、不法行為に基づく損害賠償責任があるというべきである。

第四損害

一慰謝料

原告健一郎は、本症により両眼を失明し、生涯を盲目で過ごすことを余儀なくされたもので、今後も、重大な制約を受けながら、日常生活や社会生活を送らなければならないことを考慮すると、その精神的苦痛は極めて大きいと認められる。

また、親として同原告の将来に不安を抱く原告洋平及び同裕子の精神的苦痛も、原告健一郎の生命が侵害された場合に比し著しく劣るものではないというべく、この苦痛による慰謝料を請求することができると解するのが相当である。

そこで、右の事情のほか、被告における過失の内容、程度など諸般の事情を考慮すると、被告日赤が賠償すべき慰謝料は、原告健一郎に対し二〇〇〇万円、原告洋平及び裕子に対し各二〇〇万円をもつて相当と認める。

二弁護士費用

原告健一郎、同洋平及び同裕子が、同原告ら訴訟代理人に本件訴訟を委任したことは当裁判所に明らかであるところ、本件事案の内容、本件訴訟の経緯、認容額などの諸事情を考慮すると、被告日赤が賠償すべき弁護士費用は、原告健一郎につき二〇〇万円、同洋平及び同裕子につき各二〇万円が相当である。

第五結論

以上の次第であるから、原告らの本訴各請求は、原告健一郎、同洋平及び同裕子の被告日赤に対する各請求のうち、原告健一郎につき二二〇〇万円及び内金二〇〇〇万円に対する不法行為の日の後である昭和五二年三月二二日から、内金二〇〇万円に対する本判決言渡の日の翌日から各支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を、原告洋平及び同裕子につき各二二〇万円及び各内金二〇〇万円に対する不法行為の日の後である昭和五二年三月二二日から、各内金二〇万円に対する本判決言渡の日の翌日から各支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の各支払をそれぞれ求める限度で理由があるから認容し、原告健一郎、同洋平及び同裕子の被告日赤に対するその余の各請求、原告律子、同則彦及び同昭子の被告大阪医大に対する各請求、原告幸夫、同健及び同美子の被告三菱自工に対する各請求、同昌宏、同孝司及び同咲子の被告三菱自工及び同国に対する各請求、原告成子、同多榮子、同朋宏、同富夫、同綾野、同光昭、同亮一及び同浅子の被告日赤に対する各請求、同政子、同弘之、同捷代、同弥生、同光國、同多津子、同さつき、同義隆及び同初子の被告日赤及び同京都府に対する各請求、被告秀樹、同桂三、同美幸、同亜希子、同榮吉及び同とき子の被告国に対する各請求、原告浩二、同信夫及び同初子の被告済生会に対する各請求はいずれも理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九二条本文、九三条一項を、仮執行宣言につき同法一九六条をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官石田眞 裁判官河合健司 裁判官大西忠重は、転補のため署名押印できない。 裁判長裁判官石田 眞)

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